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ひもろぎ逍遥

馬上の武人8 近江毛野臣


馬上の武人8
WAKIMIKO
近江毛野臣


前回のおさらいから。

516年。
新羅を襲った伴跛(はへ)国を討伐しようと、
水軍を率いて滞沙(たさ)湊に着いた物部至至(ちち)連だが、
戦う前に伴跛国に襲われて敗退した。

一年後に百済に援けられて帰国する。
送り届けた百済の将軍は、日本から己汶(こもん)を賜ったことの礼を言い、
先年、献上した五経博士の交替を望み、受け入れられた。

百済はさらにもう一人の将軍と「日本の斯那奴阿比多」を派遣してきた。
高麗の使者・安定(あんてい)も挨拶のために一緒に来た。

この「日本の斯那奴阿比多」に関しては諸説ある。
科野(しなの)の字を当てるものもある。よく分からない。




その後は平穏だったのか、『日本書紀』は523年に百済の武寧王が死んで、
翌年に聖明王が即位したこと、また継体天皇が二度遷都したことなどを記す。

百済は聖明王の時代になった。
鞍橋君(くらじのきみ)と関連がある王が出て来た。



そうして、三年後の527年。
近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に向かい、
新羅に破られた南加羅トクコトンを奪い返して任那に合わせようとした。


これを読んで驚いた。
新羅がいつの間にか二つの土地を奪っていたのだ。
『日本書紀』は、これに至る事情は全く書いていない。

またもや新羅攻撃隠しか。豊浦宮に続けて二例目だ。



状況は書かれていないが、
新羅と戦うために、日本から六万もの兵を送ろうとしていた。

この数字はオーバーに書かれたとしても、
かなりの軍勢が海を渡ろうとしたのだろう。
いったいどれだけの船が用意されたのだろうか。



この不可解な新羅攻撃の所に、筑紫国造磐井が出てくる。

『日本書紀』によると、毛野臣が出発しても、
国造磐井はひそかに反逆を謀りながら、ぐずぐずしていた。

新羅がこれを知って毛野臣の軍を防ぐようにと磐井に賄賂を送って来た。

磐井は火の国と豊の国に勢力を伸ばして職務を遂行しなかった。
外では海路を封鎖して高麗、百済、新羅、任那の年毎の朝貢船を
自分の所に誘導し、内では任那に派遣される毛野臣の軍を遮った。

そして、無礼にも、
「今こそ使者になっているが、昔は我が友として同じ釜の飯を食った仲ではないか。
急に使者となって、お前に従えというのか」
と言い争って命令を受け付けなかった。

磐井は驕り高ぶっていた。毛野臣は遮られて留まった。

『日本書紀』はこんな風に磐井を描写する。
このように饒舌な部分は作文なので、真剣に解釈すると
『日本書紀』の罠にはまってしまう。
が、とりあえず信じるとして、
毛野臣と磐井は過去に共に過ごした時代があったということになる。

いったい何処で。これもまた不可解な話だ。


近江毛野臣をネットで調べると、武内宿禰の後裔で波多氏の支族とある。
それなら物部系だ。
(武内宿禰の名は物部保連)


毛野臣は近江とはあるが、近江国では伝承が見つからないらしい。
筑豊の多賀神社付近は淡海と言っていたので、
本貫地を筑豊に探してみたくなった。

こちらは物部がわんさといる。
大軍勢を持っている点からも、筑豊の物部系ではないか。

そうすると、これまでの物部氏リストに加わることになる。

五万の兵が近畿から派遣されていたとすると、
既に船で本州から渡って来たことになるので、
磐井が拒否しても、自ら渡海すればよいだけの話だ。


ちなみに、百済、新羅、高麗が朝貢船を停泊する湊は門司にある。

地名が、百済浜は葛葉、新羅崎は白木崎、高麗入江は小森江と
なったと伝えている。
(拙著『神功皇后伝承を歩く』99甲宗八幡宮)

これは仲哀天皇の皇居が豊浦宮にあったためで、
外洋船はこれ以上、瀬戸内海に入れなかったためだろう。
そして、すぐ近くの和布刈神社は安曇磯良が祀られている。
安曇族の拠点だ。

開聞海峡の北は住吉族が掌握した。
毛野臣は住吉族の船を利用したのだろうか。
秦姓は宇佐を中心に今も分布する。




この時代の古墳の例

積石塚 相島一号墳 6世紀前半から中頃
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こちらは安曇族たちの奥津城




日拝塚古墳 那珂川町
6世紀前半
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任那にあった前方後円墳と石室が同じタイプだという。
那珂川町は奴国の範囲にあったという。






ところで、「歴史カフェ」に向けて、「脇巫女」を読み直しているが、
「脇巫女3」に、
<「われ」はネットを使って全国の「物部の民」に呼びかけよ、というのだ。>
というくだりが出て来た。

『日本書紀』を読んでいると、その物部が出てくる。
一人は穂積押山大連であり、一人は物部至至連だった。
これに加えて毛野臣だ。

彼らは古墳時代に海を何度も渡っていた。
漠然としていた物部像が形を取り始めていた。

2・21の『豊の国古代史研究会』では、遠賀水軍を話すが、
そこにも物部氏の名前がずらりと出てくる。
『日本書紀』に出ている人物もいれば、神社縁起から出て来た名前もある。


今、『日本書紀』を読むことは、「われ」の意図から、はずれていないんだな、
そう気づいた。





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Commented at 2019-10-03 05:26 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2019-10-07 21:16
こんばんは。
いろいろと繋がると、謎が更に深まりますね。
by lunabura | 2016-02-09 21:32 | 「脇巫女」 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25