2016年 05月 12日
杉守神社 香月氏
杉守神社
香月氏
遠賀川流域の物部氏の中では、香月氏の系譜がかなり詳しく伝わっている。
物部氏は文字を持っていて、記録を残す氏族だったのだろう、とよく思う。
香月氏の祖はニギハヤヒであり、かつ田道命ということなので、
物部と皇族の末裔の両方の性格を持つ。
だからだろう、
小狭田彦の代に景行天皇や日本武尊の遠征に絶大なる支援をしている。
その結果、日本武尊は小狭田彦に「香月」姓を賜ったという。
簡略な縁起はネットでも見ることが出来るが、
文脈から、どうしても分からない事があった。
それは、香月氏の本貫地は杉守神社のある所ではないのではないか、
という疑問だった。
それを確認するために、杉守神社に出かけることにした。
場所は前回の磐瀬行宮(中間市)からわずか4キロ程度の所だ。

田園に突き出た丘陵があり、その突端に宮は鎮座していた。


急な石段を上りきると境内に出た。

拝殿は左側にあった。
宇佐や熊本で見かけた横参道のようなタイプだった。

神紋は鳥だ。
後で教えていただいたが、「白い鳥」と言う。
何か特別な鳥を指すわけではなかった。
ヤマトタケルの象徴である「白鳥」のことだろうと勝手に思った。
これまで「白鳥」を「はくちょう」と思い込んでいたが、
「しろいとり」と読むのが正しいのかもしれない。
初夏の嵐のあと、クスノキの落ち葉がおびただしい季節だ。
落ち葉掃除をしてあった宮司に話を伺う事が出来た。
それによると、やはり、香月氏はもともとここではなく、
黒川の上流、「ヨモギが原」という所に住んでいたという。
「フツ」と似ているでしょうが、とも言われた。
「ヨモギ」は一般に「ホウ」「ブ」と音読みするから、
何か特別な呼び方があったのだろう、なるほど、
物部らしいと思った。
そう、「フツの御魂」という剣神霊を信仰しているのが物部氏だ。
小狭田彦が娘の常磐津姫とヤマトタケルの縁組をしたのも、
そのヨモギが原ということになる。
戦うときには香月氏は宗像氏と共に戦ったという。
香月氏の祖に市杵島姫の名前も見えることから、
両氏は長い間共闘関係にあったのだろう。
宗像氏の動向の伝承を初めて採取した。
宗像氏は大国主を祖とするので、遠賀川流域で活躍していたのだ。
なるほど。
ミッシングリングが少しずつ繋がっていく。
さて、香月氏は何故ここに移って来たのか、伺った。
もともと黒川の上流、シラキ川が注ぐ所に住んでいたが、
水が無かったので、現在地に移ってきたという。
氏子が周辺に多いのも理由の一つだと言われた。
移ってきたのは、古代の話だ。
現在地には近年まで水質のよい井戸があったが、
炭鉱のために水が出なくなったという。
また、黒川も洪水で氾濫して、一面水浸しになるという話も伺った。
当宮はもともと「日本武尊」のみを祀っていたが、
先祖の夢で、それでは寂しいからと、新たに三祭神を合わせ、
四柱を祀っているという。
三祭神とは神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇だ。
まだ「スギモリ」も「杉森」から「杉守」と変わった。
家に戻って黒川の水域を調べていると、金剛山を回りこんでいることが分かった。
金剛山!
そう、そこには川上タケルの弟がいたはずだ。
「脇巫女27」でそのことを考察している。
◇◇ ◇
小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。
景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。
のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。
小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。
あるいは寿福寺か。
小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。
この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。
そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。
杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。
今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。
◇◇ ◇
やはり、金剛山にいた江上タケルと一戦交えていた。
ヨモギが原に居た小狭田彦は娘をヤマトタケルに嫁がせた。
それから江上タケルや川上タケルとの戦いに勝ち、
褒賞として香月の姓を賜った。
その後、小狭田彦の夢に亡くなったヤマトタケルが現れて、
白鳥となって、この地に飛んで来よう、
と言ったことに因んでここに祀るようになったとする。

杉守神社では宮司さんにお忙しいなか、お話を聞かせていただきました。
改めて、お礼を申し上げます。
杉守神社
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鞍手の少なくとも古月地区では、ヨモギ餅のことをフツ餅と呼びますよ。
フツ餅って言うんですね!
びっくりです。
佐賀の人に尋ねたら、佐賀でもフツ餅とか、フツ団子って言うんだとか。
他の地域ではどうなんでしょう。
白鳥は、鳩に見えたので、尋ねたら、それも違うとか。
「特定の鳥は指しません。「しろいとり」です」
と言われました (^^;
ついつい、考えてしまいますね。
ふつ餅って大分も長崎も熊本も鹿児島は北の方は言うそうです。其々地元のお婆ちゃんたちに聞きました。沖縄にいる知り合いにも聞いてみたんですが、蓬の餅を「ふーちーば」とか「ふーちー」とか言うそうです。厄を払う餅ということらしいです。
ヨモギ自体、お腹いたの時煎じて飲んだり怪我をしたとき血止めに使われたり乾かしてもぐさを作ってお灸に使ったり、五月の端午の節句には菖蒲に蓬をつけて菖蒲湯のお風呂をたてたり、難を逃れる草として親しまれていますよね。
難を払うと言うと草薙の劔も連想できます。考えてしまいますよね。
植物由来となると、少し手掛かりが出て来て、楽しみですね。
数日前、わたしも杉守神社に行きまして、宮司さんにお話を聞きましたが、その香月氏が黒川上流から来たというお話はお聞きできませんでした。
ちなみに、香月はもともと桂木と書かれていたようですし、実は葛城氏だったのかなと思っています。
葛城円(かづらき・つぶら)が大臣(おおおみ)だったときに雄略天皇によって焼き殺され、以後、葛城氏は権力の中枢から追い落とされたようです。で、その子孫が北部九州に逃げてきたのだろうと想像しています。
なお、ヤマトタケルに姓をいただいたというエピソードはあとでつくられたものと思います。日本人が姓を名乗るようになったのは6世紀頃からで、それまでの日本人は名前しかなかったようです。ヤマトタケルが熊襲征伐をしたというのは古事記などの創作でヤマトタケルは実在しなかったと思いますが、実在したとしても、これはせいぜい2世紀とかの時代になります。その時代に姓を名乗る風習はなかったはずです。
香月氏はたぶん、カツラキと名乗って筑豊平野で米をつくっていたのだろうと思います。で、6世紀になって磐井の乱(527年)が起きました。このとき、磐井の側について物部軍と戦ったのだろうと想像します。で、敗戦したため、カツラキと名乗るのがはばかられるようになり、カツキと姓を縮めたのだろうと想像します。磐井は古事記・日本書紀では殺されたことになっていますが、筑後国風土記では豊前国に逃げて、逃亡中に死亡したとなっています。豊前国は杉守神社のある筑前国の隣であり、桂木氏はもしかすると磐井の逃亡を助けたのかもしれません。だとすると、なおさらカツラキと名乗ることが危険となったでありましょう。で、カツキと姓を変えて物部氏の配下に入ったのだろうと想像します。
杉守神社は古墳の上に建っているようです。
その古墳の墓主はカツラキ氏なのでしょう。
で、神社としては、カツラキが香月となった経緯を説明せねばならなくなり、それで、昔からヤマトの配下だったと言うためにヤマトタケルに姓をいただいた、というお話をつくったのだろうと想像します。
勝木という地名は南九州にもあります。
これは、古事記が完成した翌年(713年)に反乱した大隅の隼人を鎮圧するために北部九州から南九州に移住させられた者たち(5千人)のうちに香月氏の者があり、これが現地で勝木と名乗ったものかなと思います。物部氏の配下に入った香月氏は勝木と名乗るようになったのかなと考える次第です。









