2016年 05月 21日
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―を話し終えて
「磐井の乱後」
-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
を話し終えて
今日は久留米大学公開講座で
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
の話をしてきました。
足をお運びくださった皆様、ありがとうございました。
パワーポイントの最初と最後の画像は最後に選んだのですが、
こんな風になりました。


並べてみると、どちらも宮地嶽古墳です。
これは宮地嶽神社の境内にあり、宮地嶽神社の祭神が祀られて続けています。
被葬者は「勝村神。勝頼神」です。
二神は筑紫君葛子の子と伝えています。
ですから、筑紫君磐井の孫に当たります。
これが、ある日突然、宗像徳善の墓だ、と学者に言われて、
その誤解はいまだに解けずにいます。
宮地嶽神社側のショックはただならぬものがあったようです。
宮地嶽神社は安曇族です。
その証が欲しかったのですが、
ついに昨年、宮司だけが舞える秘舞として、
磯良の舞が再現され、発表されました。
こうして、安曇磯良の存在は
志賀海神社、高良玉垂宮、宮地嶽神社へと受け継がれていたことが、
平成になって明らかになりました。
安曇族の境内に宗像族が出かけて行って墓を作ることはあり得ません。
宗像族は自分たちの氏族の近くで眠るはずです。
わざわざ山の向こう、見えないところに作るはずがない。
こんなシンプルな理論も無視されています。
学者の論文に宗像市として堂々と書かれているのを見たことがあります。
正しくは福津市です。
宗像徳善は娘を天武天皇に差し出していて、
飛鳥浄御原宮の時代に外戚として娘の援助をしています。
飛鳥浄御原宮は672~694年です。
徳善はそのころ全盛期だったのでしょう。
孫は大臣に昇りつめています。
ですから、墓は700年前後に作られたと想定するのが理に適っています。
それに対して宮地嶽古墳は600~630年の推定。
両者には100年ほどの違いがあるのです。
もう、宗像徳善の名前を出すのは止めましょう。
「誰かが言ったから、そうだ。」
という発想が古代史の闇を深くしているのです。
今日は、この話や、磐井の菩提寺が作られた話、
また磐井の孫が百済王子と共に戦った話などをしました。
出版は、もうしばらくお待ちくださいね。
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今後取り扱いたいテーマの一つに、磐井を考えています。
違った立場からのアプローチになると思いますが、よろしくお願いします。
「高良山雑記」もまた、くじらさんから提供していただいたもの。
ようやく有効に利用できました。
いつも、ありがとうございます^^
明星山は八女から見たら一の岳になるようです。
神社の跡が見つかるといいですね。
古墳時代の岩城ですから、特殊なものだと思います。








