ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご12 松尾弁財天4 裏の小道と中大兄と



ひめちゃご12

松尾弁財天4 
裏の小道と中大兄と
 




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磐座の左手には小川を隔てて神楽殿?がある。
この宮では浮立(ふりゅう)が行われていたそうだ。









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その裏手に回ると灯篭が不思議な場所に立っていた。









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そこから上流を見ると石を横たえただけの橋があった。
向こうには小道が続いている。
橋から振り返って灯篭を見ると、この道が正面参道になっているのが分かった。

この宮には二つの参拝道があったのだ。
この道は上流の方、山手からここに下って来る参道だった。




この険しい山中、弁財天に参拝する人は二つに一つ。
厳しい沢登りをするか、
反対側から登山してここに下ってくる方法しかなかったのだろう。

今は、社殿のすぐ上に舗装道路が出来ているが、
これは工事用の道路なので、それを突き進むとラフロードになるという。

反対側から登山する人たちはいったい何処から来るのだろう。
そう、松尾弁財天の西にはみやま市があった。






ちょっと、息をのんだ。




みやま市には中大兄皇子が朝夕祈ったという「太神宮」(だいじんぐう)がある。
そこに行ったばかりだった。

太神宮では、ひもろぎを立てて「朝夕」祈ったという話と
毎朝「東方の朝日」を拝んだという話が見つかった。

中大兄皇子が何故、みやま市の太神(おおが)にいたのか。
それは「乞食の相」があると言われ、即位前にその相を果たそうとしたからだ。
流れ着いたのか、導かれたのかは分からない。

この時はまさしく白村江の戦いで倭国軍が負けたあとのことだ。
襲来する敵を迎え討つために水城や狼煙台を作ったという。

この話には潤色が見られるが、それはそれとして、
筑紫君は捕虜となって連行され、倭国は崩壊した。

日本国の盟主となるはずの中大兄が何故すぐに即位しなかったか。

それは先ほど述べた「乞食の相」を果たしている時期があったからだという
話がここにはあった。

皇子は有明海近くに到達し、朝夕の祈りを捧げたというのだ。
あるいは東方の朝日を。

その方角には松峡八幡宮を含む山塊があった。





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これは太神宮から西南400mほどの所にある住まい釣殿宮から東を撮ったもの。
何の山が見えているのだろうか。









次回の歴史カフェでは「中大兄皇子の即位前」と
「斉明帝崩御ののちの筑紫での足跡」を辿る話をする予定だ。

多分、二回かかるのだろうが、
実は歴史カフェのお題は内なる響きで決めている。
このタイミングで中大兄皇子の乞食時代に至る話をするのは、
もしかして…
そう、もしかしたら、皇子は松尾弁財天のある山塊を拝していた可能性もあるのだ。


「松尾」といえば、「松の尾」すなわち倭国(九州王朝)の末裔を意味する。
唐・新羅連合軍に敗して倭国の前途が失われた時、
中大兄が祈る場所が何故にみやま市の瀬高でなくてはならなかったのか。

皇子は偶然辿りついたのか。
そうではなく、意図的にこの地を選んだのか。
また、考えなくてはならない祭祀線が出て来た。

中大兄とつなげる必要はないかもしれないが、
少なくとも、私にとってはシンクロニシティ―だった。


さて、拝殿に掲げられていた由緒書きには
当社には山門郡山川村中原から伝承された浮立があって、中断しているという。

山門郡(やまと)は今、みやま市という。
やはり、あの山越えの道を通っての信仰があった名残ということになろう。



柳川藩の殿様も通ったのはこの道だろう。







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by lunabura | 2016-09-04 21:41 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(31)
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Commented by ta at 2016-09-05 18:09 x
ざっと見てみたら、福岡って松尾さん姓、全国トップなんですね。県内で一番多いのがみやま市・・・らしいですよ^^:
Commented by lunabura at 2016-09-05 22:04
あれ。そうなんですか。
これまた面白いですね。
「松」が付くことじたい、九州に集中しているという話があったのを、今思い出しました。
Commented by ume at 2016-09-05 23:25 x
松尾弁財天と京都の松尾大社は、なにか関連があるのですか?
Commented by まーりん at 2016-09-06 01:55 x
umeさん、はじめまして。横から失礼いたします。
わたしも松尾大社を連想していました。

ご祭神が大山咋神と中津島姫命=イチキシマ姫ということで、松尾弁財天の大己貴命、狭依毘売命=イチキシマ姫の組み合わせに似てるような気がして。また磐座があるのも共通では。しかしその先が見通せないのです。
Commented by tukifune83 at 2016-09-06 08:54
taさん、おはようです♪そういえば小学生の時の親友が松尾さん、中学の同級生に松野尾君って居たなあと思い出しました。関係ないですね。(^_^;)

ウメさん、はじめまして!まーりんさん、おはようです♪
オオクイヌシはオオトシガミの御子ですね。このオオトシガミがニギハヤヒだという説もあります。
私が調べた限りでは、八女、と言っても奥八女方面ですが不思議なくらい松尾大社系も日枝、日吉神社系もお祀りされていません。圧倒的に大山祇が多いです。しかも松尾という地名なのに全く無いのに驚いた記憶があります。
むしろ、筑豊地域に沢山そちらの系統のお社がある様です。
by水月


Commented by まーりん at 2016-09-06 11:36 x
水月さん、情報をありがとうございます!
奥八女では松尾大社系とのつながりは薄いようですね。しかし大山祇と大山咋の異同の問題はあるやかもしれないですね。それにしてもやはり現地調査の力はすごい。本当にありがとうございます(^ω^)
それじゃあ地名が松尾なのは別の意味があるのかな。松の尾の地?

この松尾弁財天のシリーズにふれ、大学の研究室の先輩、立花さん(藩主の子孫)を思い出しました。九州には派手な顔立ちの方が結構いますが、彼はとりわけ目鼻口、顔の造作が大きかったです。同じ研究室に、なぜか柳川の旧家の方々(家が文化財だって)もいたし・・・今思えば不思議な組み合わせでした。
Commented by tukifune83 at 2016-09-06 13:55
まーりんさん
いえいえ、現地調査はまだまだ足りず、神社誌による情報なので見落としもあるかもしれません。(汗)
大山祇神は山そのものの神と思われますが、オオヤマクイ神は山に杭を打つという意味があり私的には山の開拓神の様なイメージです。
でも、オオヤマクイ神は出雲神の流れですし、物部の里の筑豊地域ではとても多くお祀りされていますので、市杵島姫とご一緒に祀られている松尾大社もとても興味深いですね。

関係ないかもですが、(^_^;) 八女の松尾の町名は「立花」です。何だか不思議な事ばかりです…。(*´∀`*)
Commented by ta at 2016-09-06 17:33 x
umeさん、まーりんさん、水月さん、こんにちは^^

単純に姓だけ調べただけなんですが、ほんと八女には少ないですね。市町村別だと圧倒的に多いのが実は長崎市8200人、ついでみやま市3400人、佐世保市2800人、武雄市2700人、大牟田、伊万里、諫早、飯塚、八幡西・・資料で少し数字は変わるようですが、海岸線が多い?
Commented by まーりん at 2016-09-06 22:45 x
ta さん、こんばんは(*^^*)

情報ありがとうございます
なんと「松尾」長崎ダントツなんですね~('ω') 
みやま2位
松尾弁財天もみやまからの流れという感じでしょうか。
生活の拠点はみやまだけど、ここは祭祀に重要な場所だったんでは・・・(るなさんが最初からそう言ってるじゃん)
挙げてくださった地域は、淀姫(豊玉姫/イチキシマ姫)・ナマズでつながりそうなんですけど、いかがでしょう。 

三階松って、松のなかでも特上って意味でしょうか?

宮城の塩釜神社周辺は阿部姓が多く、創建以来の祀官家も安倍氏です。こんなふうに、地域の核となる神社を守る一族が誰かというのも、鍵になる気がしました。
Commented by tukifune83 at 2016-09-06 22:57
こんばんは♪横から失礼します。_(_^_)_
みやまが生活の場で祭祀が八女というパターンは、前にまーりんさんが教えて下さったブログ記事の方の日田とその周辺に似ていますね。祭祀がある場所の周りに守備を固める的な。なので祭祀がある場所には限られた人しか住めない、とかだったかと。
みやまには物部の里があリましたよね?七支刀もあったし。あっ、そういえばシュメールの聖なる木は「七枝樹」らしいです。お邪魔しました…(〃∇〃) by水月
Commented by ta at 2016-09-07 06:50 x

たびたび失礼します^^

多分 コレ だいぶ前にlunaさん、アップしてますね^0^
Commented by lunabura at 2016-09-07 22:56
えっと、皆々さま。
コメントありがとうございます。
京都の松尾大社をウィキで見ると、天智7年に市杵島姫が磐座に降臨したという感じでしょうか。
案外、賀茂神社と同じケースで、天智が勧請した可能性も視野に入れてよいのではと思うようになりました。
それで、大山クイで思い出したのが、筑後国造さんのとこ「山歩き古墳巡り」に浮羽の松尾神社が紹介されていて、そこにはキューブの巨大磐座が鎮座しているんです。

http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-951.html

これをみて大山クイとは磐座の象徴ではないかと思うようになりました。例を集めてみたいと思っています。
松尾姓に関しては未調査だったので、taさん、ありがとうです。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-08 21:57
るなさん、ご無沙汰しています。古月です。
  大山咋が出雲から来た神々とともに「丹の湖」の水を抜いて
拓いたとされる京都府亀岡市旭町(旧 丹波國桑田郡)にも松尾神社
があり、どうも嵐山の松尾大社よりも亀岡の松尾神社の神社の方が
古いようです。
 亀岡の松尾神社の社伝によると和銅年間(708~715)の創祀と
なっていて、更に境内の案内板には、秦川勝が聖徳太子の命を
受けて祀ったとあるので600年前後の創祀ということになります。
丹波の亀岡の松尾神社周囲には多くの古墳が点在しています。
Commented by lunabura at 2016-09-08 22:58
古月さん、こんばんは。
京都には松尾神社と松尾大社があるんですね。
例を集めると、全体像が見えてきそうですね。
情報ありがとうございます。
もしブログにUPしたら、お知らせください。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-09 10:51
実は、鞍手町古門の布留神社址の少し北に、かつては松尾神社がありました。筒井 甫 先生の 古門邑小史 にも載っています。(古月)
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-09 22:38
連投になり恐縮ですが、松尾神社の名で京都の松尾大社との関係を
思い浮かべる方が多いようなので、一言。

京都の嵐山・松尾山近辺の弁財天といえば、渡月橋脇にある
「櫟谷宗像神社」があります。延喜式神名帳にある櫟谷神社と
(嵐山の)宗像神社が合祀されたのでこういう名前になりました。

(京都の)松尾神について 本朝月令の一文に次のようにあります。
| 秦氏本系帳云。正一位勲一等松尾大神御社者
| 筑紫胸形坐中部大神。戊辰年三月三日 天下坐松埼日尾。
| 又云日埼岑。大宝元年 川辺腹男秦忌寸都理
| 自日埼岑更奉請松尾 又田口腹女。秦忌寸知麻留女
| 始立御阿礼平。知麻留女之子秦忌寸都駕布
| 自戊午年為祝。子孫相承 祈祭大神。

「松尾大神御社者 筑紫胸形坐中部大神」と秦氏が書き残しています。

鞍手町古門の西山の松尾神社を思い出したのもそんなわけです。
鞍手町古門は元は宗像郡でした。
Commented by lunabura at 2016-09-11 16:27
古月さん、こんにちは。
そうですね。鞍手は一時期宗像郡に属していましたね。
すると、古門にあった松尾神社にかつて中部大神が祀られていたのでは、ということですね。
現宗像市での祭祀は8世紀頃までしかまだ遡れないようなので、勧請元を単純に宗像市田島で考察するのは難しいかもしれませんね。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-13 12:59
上、中、底 でみれば 鞍手が 中 ですしね。
夢で つやま かたの くわた みやま とキーワードが出ました。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-13 13:26
京都の松尾大社も8世紀に遷ってこられたようです。
「古月のおと」
 ・大将軍八神社
 ・桑田(亀岡)の松尾神社
 ・千歳(亀岡)の愛宕神社
にまとめています。
特に観測点のお話、大将軍八神社 で出てきます。
Commented by lunabura at 2016-09-13 21:53
そこはかとなく、筑紫と重ねてしまいますね。
不思議な感じです。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-13 23:20
7世紀から9世紀、近畿と筑紫はがっつりとリンクしてますよね。

645年、大化の改新、胸形君徳善が宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任。
654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産。
    天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。
690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。
729年、長屋王(胸形君徳善の曾孫)の失脚
832年、(卜部)藤原千歳麿の宗像下向、宗像大宮司氏継承。
Commented by lunabura at 2016-09-18 22:10
古月さん、胸形徳善の問題はどうしても解決しなくてはならない部分です。
それというのも、宮地嶽神社の古墳に徳善の説が出て、神社では困っているからです。
まとめてくださってありがとうございます。
近畿とのリンクが徳善関わりとは興味深いです。
ところで、645年の記事の出典は何でしょうか。
よかったら教えてください。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-22 21:57
645年の記事は、今回、安直にWikipediaから引いてしまいましたが、
文字でみた最初は宮田町誌で、大化改新のときに神領として寄進された
という話だったと思います(違っていたらゴメンナサイです)。

今、見れる範囲で探しますと、
宗像大社の「神郡宗像 第1号(平成23年)」P3 ②宗像神郡 の記載、
| 「大化の改新」(645年)により、朝廷は全国を国・郡・里の行政組織と
| して直接支配がはじまります。中央集権が進む中でも、全国の七つの
| 神社に対しては特例として朝廷の管理から外されました。
とあります。決定的ではないですね。

一次文献としては、

『続日本紀』文武天皇2年(697年)に、筑前国宗形郡と出雲国意宇郡に、
郡司の同一氏族による連任を許す記事。

養老律令の注釈書『令集解』に引かれた、養老7年(723年)の太政官処分
| 釋云、養老七年十一月十六日太政官處分、伊勢國渡相郡、
| 竹郡、安房國安房郡、出雲國意宇郡、筑前國宗形郡、常
| 陸國鹿嶋郡、下總國香取郡、紀伊國名草郡、合八神郡、
| 聽レ連二‐任三等以上親一也、
があるようです。

うーん、「壬申の乱」(672年)の後の可能性も残りますね。
宗形神郡が最初の例外であるという旨の文をどこかで読んだ気がするのですが、
何だったかすぐに思い出せません・・・
ちなみに鹿島神郡は、大化五年(649)の記載が『常陸国風土記』にあるそうです。
Commented by lunabura at 2016-09-22 22:54
古月さん、忙しいのにありがとうございます。
これでアプローチする手段が出てきました。
徳善が筑紫と近畿を結んだ可能性があるんですね。
そして、失敗した・・・
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-23 21:14
 徳善の孫の高市皇子は、天武天皇が皇位につくことができた最大功労者で、軍事を掌握していました。高市皇子の子の長屋王はいきなり大納言になりました。720年、右大臣藤原不比等の没後、右大臣となり、さらに724年聖武天皇の即位とともに正二位左大臣に昇っています。
 善徳と高市皇子亡き後に、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で長屋王は妻の吉備内親王ともども自死に追い込まれ、ここに藤原四子政権が樹立します。
 このとき、長屋王の息子たちのうち、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王も亡くなっています。山背王は生き残りました。しかしながら、短期に藤原氏都合の天皇譲位を繰り返されたことで、山背王の子らはもはや臣下におちてしまいました。
Commented by furutsuki_oto at 2016-09-23 21:16
続きです。
 そのうち長屋王の無実は公然と知れるようになり、今度は藤原四兄弟があいついで病死しました。その他の重要な官僚も天然痘で相次いで死にました。そこで政権を掌握したのが橘諸兄です。橘諸兄の下で吉備真備・玄ボウは重く用いられ、それが一方で不満を生み、740年の藤原広嗣の乱に繋がっていきます。広嗣は不比等の孫です。しかし橘諸兄も755年に失脚してしまいました。

 巻き返しを図ったのでしょうか、767年には胸形君深津に皇族の竹生王が降嫁します。しかし、ついに藤原氏の天下となり、800年、宗形大領が宗像宮司を兼任することが禁止されます。832年には藤原冬嗣の四男の藤原千歳麿が宗像郡に下向して宗像宮司になります。その後、(宗像大社の社伝では)914年に宇多天皇の皇子の清氏親王の宗像下向があり、清氏の子孫が宗像大宮司職を世襲しました。

 胸形君は郡司連任も認められなくなって吉備に遷ったようです。吉備の宗形神社や中山神社、難波氏や交野物部との関係も そのうちマトめてみたいと思います。
Commented by lunabura at 2016-09-23 23:11
かなり驚きの内容ですね。
なんだか、うっすらと、争いの初元が大善寺玉垂宮の祭神の置き換えから来ているような。
漠然としていたものが、形を得そうです。
ありがとうございます。
Commented at 2016-10-18 12:02
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2016-10-18 20:45
非公開さん、教えてくださってありがとうございます。
この辺り、思考ストップしてしまいます。
どうしても、分からない(涙)
Commented at 2016-10-18 21:32
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2016-10-18 22:13
あー。
それなら分かります。
有り得ますね。
天智は賀茂の祭も持って行ったんだし。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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