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ひめちゃご23  太歳とは天皇の一世一代の暦制を奠める儀式である



ひめちゃご23
 
太歳とは

天皇の一世一代の暦制を奠める儀式である
 




時々、目覚めの時にテーマを与えられる。

その日は「太歳」(たいさい)という言葉が浮かんだ。

しかし、一週間も手がつけられなかった。
そのうちに言葉は消えていくものだ。

そう思っていたが、今朝もまた「太歳」という言葉が響いた。
内なる神はまだ導いてくれているようだ。


「太歳」を何故調べなくてはならないのか。

これが中大兄皇子の即位の問題を解く鍵となるからだ。

「ひめちゃご」は姫神たちのことだけでなく、
倭国の終焉の日々を知らせている。


避けては通れなかった。



さて、中大兄皇子は皇太子なのだから、
母の斉明天皇が亡くなれば、当然、即位すべきなのだが、
長らく即位していないことになっている。

即位するまでを「称制」(しょうせい)期間と呼んでいる。
称制とは代行という程度の意味か。

しかし、『日本書紀』を読むと、驚いたことに
初年度に「太歳」を行ったことが書いてあった。

「太歳」を行ったということは即位したことを意味しているではないか。

どうして、人々はこれを見逃すのだろうか。
あるいは無視するのだろうか。

いぶかしく思って
ウィキペディアを見ると
太歳とは「木星の鏡像となる仮想の惑星」と書かれていた。
良く分からない。
天皇と仮想の惑星とは関係あるまい。

岩波文庫の注でも「木星の異名」とあり、
「書紀では御代の改まるごとに、即位元年の太歳の次(やど)る干支を記す。」
とある。

天皇即位と木星が関連する意味は書かれていなかった。
これも無理な説明だ。




太宰府の天文官の家系である真鍋はこう記す。『儺の国の星』p84

「太歳とは天皇の一世一代の暦制を奠(さだ)める儀式で、
即位の大典の前後におこなわれる。」

太歳とは「暦制を奠める儀式」だったのだ。

ということはその前後に「即位の大典」が行われていたことになる。
だから、中大兄皇子は母帝の崩御の翌年、即位している。


「暦書」を手にすることは、神の代行と信じられていた時代があった。

中国でもそうだ。
「天子は暦を与える」
こうして、諸国を治めた。
暦制こそが天子の天子たるゆえんとなるのだ。




真鍋は「さだめる」をわざわざ難しい「奠」(てん)の字を使っていたので、
コトバンクで調べた。

てん【奠】
[音]テン(漢) デン(呉)
1 神仏に物を供えて祭る。「奠茶」
2 供え物。「香奠(こうでん)・祭奠・釈奠(せきてん)・奉奠・乞巧奠(きっこうでん)」
3 位置を定める。「奠都」

となっている。
「定める」と同意だが、「神仏に物を供えて祭る」という意味も
込めたかったのだろう。


「太歳」の日には暦制を宣言し、神へ報告する祭事が行われたのだろう。

その日取りは太陽暦と太陰暦によって決められた。
立春、立夏、立秋、立冬、春分、夏至、秋分、冬至と
朔望(新月と満月)が一致する日を選ぶという。

これを即位の大典の日程の前後から計算で求めたのだ。
これこそ、天文官にとっても一番大切で晴れがましい計算だった。

これは「日と月」による設定なので、やはり木星とは関係がない。

太歳の儀式は清和帝貞観4年(862)に宜明暦が採用されるまでは
続いたという。


それでは、『日本書紀』の天智天皇紀はどうなっているか。

「是年(662)、太歳壬戌(みずのえいぬ)。」とある。
壬戌は662年。
つまり、661年に斉明天皇が亡くなって、称制(代行)を行い、
翌年には即位のために太歳を行ったということになる。

3年目、
「天智3年(664)に天皇は大皇弟(大海人皇子)に命じて云々」
とあり、「天智天皇」は弟に勅命を下している。

ところが、
「天智7年(668)に皇太子は即位した」とある。

これが問題の部分で、
通説ではこの年に中大兄皇子は初めて即位したと解釈されている。

天皇だった人が皇太子に戻っている矛盾がある。

これに対しては、6年間は即位しなかったので、
天智3年の記事の「天皇は」という部分の方が間違いだということになっている。

結果、6年間は天皇不在とするのが通説だ。

しかし、「太歳」という言葉からは天智はやはり即位していることになる。

『日本書紀』は「天智天皇」と書いたり「中大兄皇子」と書いたり、
表記は揺れている。

私はこう思う。

『日本書紀』は
「中大兄皇子はしばらく即位しなかった」としたかったのだ。

このために「天智天皇」を「中大兄皇子」と書き換える作業をしたのだが、
天智3年だけは、見逃してしまった、と考える。

何故、中大兄皇子は6年間即位しないことにしたかったのか。
その答えは、その間に白村江の戦いがあったことが挙げられる。

唐と戦ったのが天智天皇だとはしたくなかったのだ。

苦肉の策として、天皇は存在していなかったと、捏造した。

それが実態だろう。

いや、編者は事実を知らせたくて
「太歳」を暗号としてしのばせたのかもしれない。


「太歳」からそんなことを考えた。

これが明らかになると、
みやま市の太神宮での祭祀の時期がかなり絞り込まれてくる。









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by lunabura | 2016-10-14 22:18 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2016-10-16 22:02
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2016-10-29 21:17
あ。
今頃気付きました。ごめんなさい。
町誌、見たいな・・・
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