2016年 10月 17日
ひめちゃご24 阿曇比羅夫と阿倍比羅夫 百済救援軍
ひめちゃご24
阿曇比羅夫と阿倍比羅夫
百済救援軍
今朝の目覚めのお題は「阿曇比羅夫と阿倍比羅夫」だった。
『日本書紀』に出てくる二人の将軍の名だ。
「ひめちゃご」は中大兄皇子の視点で女神やたちや
倭国を守った武将たちの存在を次々にクローズアップさせている。
次回の歴史カフェで読む予定の『日本書紀』を訳していて、
この二人の将軍の名が出て来たばかりだった。
「阿曇比羅夫と阿倍比羅夫」
よく似た名前だが、名字を見ると二人とも明らかに安曇族だ。
この二人は何度か朝鮮半島に派遣されているが、途中で一人の名が消える。
気になったが、改めて調べよということなのだろう。
今回、思いがけないことを知った。
まずは『日本書紀』の該当部分を簡潔に引用しよう。
<斉明7年(661)7月24日に天皇は崩御された。
皇太子は素服を来て称制(即位せずに政務を摂ること)した。
この月に皇太子は長津宮に遷居され、ようやく海外の軍政をされた。
8月に前将軍大花下(だいかげ)阿曇比羅夫(ひらぶの)連(むらじ)ら、
後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣らを遣わして百済を救わせた。
(大花下とは冠位)
(前将軍・後将軍→軍の編成は前後の二軍、あるいは前中後の三軍)
天智元年(662)5月大将軍大錦中阿曇比羅夫連らは170艘を率いて
百済王子豊璋らを百済に送り、王に即位させた。
天智2年(663)2月2日、新羅が百済に侵入した。
3月に前将軍上毛野君稚子ら、後将軍阿倍引田臣比羅夫らは
2万7千人を率いて新羅を討伐に向かった。>
以上、百済が滅び、斉明天皇も朝倉で崩御したのちの抜粋である。
倭国は百済の大臣の要請で救援軍を出すことにしていた。
661年7月に長津宮(那珂川町に推定)に中大兄皇子は遷宮した。
(地元の伝承と日付にズレがある)
そして、翌8月には王が唐に連行されて滅んでしまった百済救援軍を派遣した。
救援軍は前将軍が阿曇比羅夫。
後将軍は阿倍引田比羅夫。
阿曇比羅夫が百済王子を送り届け、百済王に即位させている。
これが662年5月のことだ。
前年の661年にも阿曇比羅夫は前将軍として百済に上陸しているので、
いつのまにか帰国して、再びの渡海ということになる。
そして、いよいよ663年に本格的な救援軍を派遣しているが、
この時、前将軍が上毛野君稚子に変わっている。
阿曇比羅夫はいったい何処にいるのか。
百済の前線に残っているのだろうか。
ネットで阿曇比羅夫を探すと、意外にもあの穂高神社の祭神になっていた。
<御船祭
例大祭は「御船祭」と呼ばれ、毎年9月26日・27日に行われる。
高さ6m・長さ12mにもなる大きな船形の山車(だし)「御船(おふね)」を
ぶつけ合う勇壮な祭で、長野県指定無形民俗文化財に指定されている。
なお26日は神事のみで、本祭りは27日である。
9月27日は天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで戦死したという
安曇比羅夫の命日と伝えられている。>
阿曇=安曇
阿曇比羅夫はやはり百済に留まり、白村江の戦いで戦死していた。
そして、その命日を穂高神社では御船祭として毎年祀っていたのだ。
安曇野で祀られている阿曇比羅夫。
彼は渡海したとき、この奈多の海を含む阿曇郷の港から出港したのだろうか、
それとも日本海から直接渡海したのだろうか。
死んだ後、彼がどのような経緯で長野に祀られるようになったのかは分からない。
が、彼は日本を守って命を落とした武将だった。
もう一人、阿倍引田比羅夫はどうだろうか。
阿倍姓からは宮地嶽との関わりが考えられる。
661年と663年の救援軍の後将軍を務めている。
これもネットで調べると、
その前には蝦夷を服属させ、粛慎(みしはせ)と交戦している。
一生戦った男だ。
越国守・後将軍・大宰帥を歴任していて、拠点がどこか分からない。
没年も分からない。
白村江の戦いのあと、生きて帰ってきただろうか。
二人の比羅夫。
阿曇と阿倍。
中大兄皇子の御代の海戦が安曇に委ねられていたことを初めて知った。
日本を守った二人の男たち。
それが朝のお題の答えだった。
歴史を知って感謝の意を捧げよというメッセージだったのだろう。
いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村
ちょっと怖いくらいですね。
どうしても、その日のうちに書かねばと思ったんです。
八面大王の所に行ったことを思い出しました。
二度も続けていったんですよ。
ずっとラインを探してきましたが、それが現実にに機能したんじゃないかという例はひとつしか知りません。
それはあまりにも厳しいお話で、まだ書く事ができないでいます。
ですが今回の、「ひめちゃご」が示すポイントは、lunaさんがラインを紡ぎ出すというか、無意識に探し当てているように思えます。まあ、そう思うのは私だけでしょうが…
ですから、ラインが今も生きて働いていることになるのかなぁ…
そこに磐座が出てきて重要な役割を果たすのですが、それについてのコラムがあるようです。本文は読んでないのですが、コラムでカットした部分を、記事の作者の方が書いて見えます。『「君の名は。」を通して知る日本の岩石信仰』で検索できるはずです。ご興味のお有りの方は一度覗いてみるのもよろしいかと…
記事の作者の方は mury さんといって、ご本人には御迷惑かもしれないのですが(多分そうだろうなぁ…)、Web上での私のお師匠さんなのです…
検索してみました。お知らせくださってありがとうございます。
実は磐座、各地のものを随分みてきました。
また回帰していくのかなあと思ったりもしています。
それまでに、これまでの蓄積を整理しておきたいのですがね。
興味深い話、ありがとうございます^^
私はまだ後の時代が分からないので、意見は持たないのですが、
白村江の戦いは偶発的に始まったらしく、
筑紫だけの中大兄皇子像はたぶん他の方のイメージとは全く違うんだろうなと思います^^