2017年 02月 01日
ひめちゃご53 新延大塚古墳2 装飾古墳だったのか
新延大塚古墳2
装飾古墳だったのか
新しいカメラでの古墳内撮影はどうやらピンボケばかり。
暗い所では自動的に何枚か連写しているようだ。
三脚を使わないといけない機種のようだが、少しキラキラの雰囲気が写っていた。
実はこの古墳は装飾古墳だという話を聞いた。
パンフレットにはそのような記述がないので、
もし装飾が目撃できたら、こんな嬉しいことはない。
気合十分。
古墳撮影のセミプロ、筑後国造にも参加依頼をしての探査だった。
しかし、それらしきものは肉眼では見当たらなかった。
このように右手の袖石には墨でマントラが書かれている。
開口したあとに書かれたものだ。
玄室、左の壁。
こうして改めて画像を見ると、黒くカビのように見えるものが、
一定のリズム感を持っているのが分かる。
玄室奥壁。左隅に赤と黒。
取りあえず、いろんな角度で撮影した。
やはり、痕跡があるようだ。
これらをじっと見ていると、あの王塚古墳(飯塚)レベルの
一面の画の存在が感じられる。
天井付近の石が赤いのは染料が残っていたのだろうか。
遠賀川でも最大の石室。
どれほどの実力者が眠っていたのか偲ばれる。
6世紀後半頃(古墳時代後期)のものだ。
そうすると、磐井の乱(527)ののち、葛子の世代になろうか。
この鞍手の鞍橋君が葛子の子だ。
百済王子と共に活躍するが、
574年に亡くなっているので、時代的にかなり近い。
その名が残る熱田神社は川の向こうだ。
こちらは別の人なのだろう。
ただ、この被葬者は鞍橋君の新羅での戦いを知っていると思われた。
被葬者を武人と考えるのは、馬具が沢山出ているからだ。
しかも、そのデザインに見覚えがあった。左上の二つを見てほしい。
そう、近年発掘された船原古墳とそっくりなのだ。
これは船原古墳の本物と復元されたもの。
当時貴重なガラスがはめ込まれていた。
古賀市ではこの種は国内唯一と言っているが、そうではない。
鞍手の分は見落とされている。
古賀と鞍手と並べて研究することを期待したい。
<2017年2月1日>
文字の大きさが不ぞろいですが、プレビュー画面では揃っているのに、
画像には反映されません(´・ω・`)
エキサイトには既に連絡したけど、そのままです。
当方ではどうにもならないので、これからもこんな調子だと思います、、、
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