2017年 02月 15日
「弓削」(ゆげ)の話と「中西」の話
「弓削」(ゆげ)の話
と
「中西」の話
弓削の道鏡が建立した由義寺(弓削寺)跡が発見されたという
2017年2月13日の新聞記事をテーブルに置いたのですが、
先日歴史カフェでいただいた久留米市の文化財マップを
整理しようと手に取ってビックリ。
「弓削・北野地区」のタイトル\(◎o◎)/!

「弓削」と「弓削の道鏡」!
これはいったいどういうシンクロ?
実は高良山に仏教が入り込んだ白鳳二年(673)。
この時、高良山の支配は安曇から物部に変わるのですが、
この物部氏が何故か、のちに武内姓を名乗るようになるのです。
武内宿禰は智将として人気があるとしても、
姓が変わるのはよほどのことと考え、
物部氏の社会的な事件が関わった可能性を想定したのですが、
この二つの資料が並んだ時、弓削氏から考えるようにと
示唆された思いがしました。
白鳳二年に出家したのが隆慶ですが、その母が弓削氏なのです。
つまり、物部氏と弓削氏はここで通婚しています。
この弓削氏だった母も白鳳7年に出家します。
正覚寺を営むとあるので、その寺は久留米で探さないといけないのですが。
(誰か教えて…)
弓削の道鏡が孝謙上皇の病を完治させたのが761年。
隆慶の母が出家した白鳳7年は678年。
弓削氏においては仏教は、道鏡より筑後の方が百年も早いことになります。
百年後の弓削道鏡事件がきっかけとなった可能性、ありますね。
少し時間を掛けて精査したいと思います。
今日はアイデアを忘れないために φ(..)メモメモです。
さて、明日は飯塚での古代史講座です。
神功皇后の話もいよいよ渡海準備の段階になります。
いわゆる三韓征伐ですが、簡単には行けないのですね。
住吉族と安曇族との交渉、
軍事訓練、
決意のパフォーマンス、男装の美豆良結い、
複数の出港地説、寄港地説などを整理します。
神功皇后が渡海の時、「この風は何か」と尋ねると、
「中西」と答えたことから、その水手(かこ)に
「中西」と名乗るようにと告げた話があります。
これがよく分からなかたのですが、
赤間の喫茶店で筥崎宮の氏子さんが突然教えてくれたのです。
「志賀島から朝鮮半島に一気に渡ることが出来る風が吹く季節があり、
その風を中西というんですよ」と。
つまり、魏志倭人伝に出てくる、楽浪郡から糸島に至る航路の
抱える問題が解決したのです。
朝鮮半島から倭国に渡るのは簡単なのですが、
逆のルートは潮流が邪魔をするので、倭国から半島に行くのは難しいのです。
しかし、一年に数日だけ吹く「中西」を捉えたら簡単に行ける!
こうして、不思議な廻り合わせで謎が一つ解けました。
それは学説では出てこない生きた歴史ですね。
伝承とは私たちに伝えてくれる知恵でもあります。
明日は、スポット参加も出来ます。
興味のある方お待ちしています。
いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村
また、弓削を名乗られてる方は高良山の南、高良内町で見受けられます。
関連あるのでしょうか?
高良内は離れていても高良山の内とされている特別区なので、
そこに寺があった可能性もありますよね。
北野に大字高良があるとは驚きです。
ありがとうございます。
字地図が欲しくなりました^^
また撮影にいきます。
天理教との別れ道辺りで、神籠石を横切ることになりますが、この辺りは石が途切れています。水門があったらしいのですが・・・
路肩崩壊の看板の手前に2人の登山者がいて、そのちょっと手前の道路に白い杭があり、その右手に正覚寺と正体院跡が見えます。
恐るべしグーグル。
こんなところまで・・・
恐ろしい時代になったもんです。
どうしてこんな山の中にと思ったら、この沢を真っ直ぐ登ると高良大社なのですね。沢沿いの参道があったのでしょうか?
高良大社の社殿の向きもこちらの方向だし…と調べてみたら、なんと、社殿の正面は若宮八幡神社が一番ぴったりのようでした。
私がよく利用した三本の道の一つかなあと思っているんですが、山道でした。石段がないので、楽だったんですが、それかなあ。
参道だったのかどうか、高良大社は昔は確か北向きに建っていたので微妙です。
北部に安曇、南に物部。そんな棲み分けのようで、利用した参道の時代が少し違ってます。
正覚寺跡沿いのこの道は、吉見岳城の裾を通り、高隆寺跡から高良大社の赤い鳥居前の茶店の横に出るルートです。石段は茶店の横に少しあるだけで、登りやすい道です。
この道には、山川町の坂本神社、その他から高良山へ登る道が合流しています。
山川町方面からの参道は、高良会館の前に出るようです。
小さい頃は、母の実家があった高良内の八幡神社の横や、富松神社付近からと、いくつかのルートを歩いた記憶があります。
もう一度行くことがあるのかなあ。
間が空いてしまいましたが、UPしました。「地図でつなぐ聖地の旅 「ひめちゃご」がつなぐライン群 その4 と その5」です。最後のところでここにリンクさせていただきました。
お暇な時にチラッと御覧ください…
ありがとうございます。
珍敷塚古墳も金立神社中宮の真東なのでした…
どうして沢山の神社や遺跡が一本のライン上に乗っかるのか。
だんだん不思議な感じになってきました。
同じような「聖なる度数」がホロスコープにもありますよね。
時代的にどうなのか分からないけど、思想的につながらないかなあと考えたりしてます。
ストリートビューを見て正覚寺の位置を大体でマークしたのですが、蛭池の三島神社と正確に南西・北東の位置関係になってしまいました。
いくら何でも、これは偶然ですよね?
よーするに、よくわかってないことをやってるんですな…
これはさすがに?ですよね。
私にとっては、何だか、頑張りなさい、というメッセージのような(^^;
宮地嶽の南北ラインのように、同じ神社でつながると分かりやすいのですが。
でも、最近、衝撃のラインを見つけました!
あんまり調子に乗ってご迷惑をおかけしてはいかんのですが…やっぱ、書いてしまいます!
どれもlunaさんに教えていただいた場所ですが…
武雄市に淀姫神社がありますよね。そこから正確に北東に佐賀市古湯の淀姫神社があったのです!
45.03°です。すごい!
ところが衝撃はこの先でした。そのままラインをのばすと、何と、六嶽神社だった…
武雄市の淀姫神社から六嶽神社まで 45.00°です。
逆に六嶽神社から武雄市の淀姫神社までは 225.35°。起点は武雄市の淀姫神社ということになります。
ラインから考えると、六嶽神社の起源は「豊姫」ということになるのかなぁ…
淀姫神社繋がりがあるなんて、オドロキですね。
武雄市の淀姫神社はたしか、がばいばあちゃんのロケ地でしたよね。
そこは(大伴)武以が祭神だったような。
豊姫も同時代で、武内宿禰の妻に当たりますよね。
神功皇后の妹でもあります。
淀姫神社からのラインがあるなら、さらに古いものかな。
ところで、次の非公開さんから、チェリーさんの調査に感謝のコメントが入ってますよ。
名前は内緒ですが^^
次回は松尾弁財天と天山のラインの予定です。ボチボチになってしまいますが、よろしくお願いいたします。








