2017年 02月 17日
高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ
高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ
水沼のクニは巫女のクニ
今朝のワクワク新聞記事。
しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。

読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)
甕棺からだって。
時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。
卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?
(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))
ま、それは別として。
『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。
昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。
水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)
ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。
その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!

そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)
田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)
水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。
景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。
水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。
筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)
その北にある太刀八幡宮も三女神。
神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)
新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。
水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。
伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。
これまで話題にならなかったのが不・思・議。
ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。
赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。
この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。
神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。
ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。
玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。
神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。
その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)
だから、山号が「御船山」なのです。
国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)
だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。
ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。
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ちなみに、我が家はそのお寺の檀家です。
最澄手彫りといわれる薬師様が伝わっています。
江戸時代は有馬藩の祈祷寺だったと聞いています。
玉垂御廟として意識したのはつい最近で、小学生の頃は単なる貝塚だと思っていました。
大字高三潴 字塚崎だからです。
大善寺玉垂宮の県道を挟んで西側の旧家は御船家で景行天皇の水先案内人の末裔の伝承があります。
来月、久留米市役所で展示するみたいなので見に行きます。
あの地がよほど重要で、何度も争奪戦があったのでしょうね。
猿大海の屋敷があったと聞いて驚きました。
安心院には筑紫君水沼とあったし、大宰府の別府だったし。
いろいろと語ると必ずここに戻ってきます(^^;

