2017年 04月 23日
ひめちゃご69 勝盛公園と飯塚宮地嶽神社の謎の祭神・勝守2
ひめちゃご69
勝盛公園
と
飯塚宮地嶽神社の謎の祭神・勝守2
勝盛公園の赤い橋を渡ると舗装道路が横切っていた。
正面に道はない。
右手に山に登る遊歩道があったので上っていくと鳥居があった。
しかし、道がない。
初めての体験だ。
向こうに社殿が見えるが、まさか山の斜面を登るようになっているとは。
右手に迂回したが、結局やはり斜面を登って脇から拝殿の横に到達した。
さらに回って、参道の中途に出て拝殿に向かった。
拝殿の前。
この神紋は何というのだろう。
三階松ではなかった。宝珠が三つ重なっているような印象の紋だ。
コンクリートの拝殿の正面には鉄の扉がある。それを迂回して横から参拝した。
この神祠に前回載せた「勝村大神・勝守大神、勝頼大神」の神名が刻まれている。
遊歩道の途中にあった石碑には
「宮地岳勝守神社拝殿建築」の文字があった。
やはり、勝守大神がメインだ。
その「勝守」の名から勝盛公園の名称が採られている。
何故、ここに宮地嶽が祀られているのか。
勝守が勝村・勝頼の兄弟だとすると、葛子の子に当たる。
もちろん、磐井君の孫だ。
鞍橋君とも兄弟になる。
これが意味するのは、
磐井の乱で勝利した物部氏と、それを差し向けた大伴氏が勢力を拡大したあと、
この飯塚市(旧穂波郡)は鞍手町と同様に
磐井の末裔が奪還した可能性があるということなのだ。
だから、創始がいつなのか、が重要になってくる。
参道を降りていって正面に回った。(これは途中の鳥居)
ここは桜の名所なのだろう。
桜の花の茎がびっしりと折り重なっていた。
今日中に解決しよう。
そう思って、私は図書館に向かった。
司書の方たちも一緒に調べてくれたが、
『飯塚市史』(誌?)には勝盛公園の沿革が載っていないし、
宮地嶽神社も由緒不明となっていた。
『飯塚市誌』(昭和27年)には宮地嶽神社の名も載っていなかった。
とりあえず、
「勝盛公園」はかつて「勝守公園」と表記されているのは分かった。
麻生太郎の父・太賀吉が造った公園だ。
ネットで探すと、麻生グループの記事があった。
以下、その一部
<勝盛公園の前身である旧勝盛公園ができたのは大正10年のこと。
まだ地方都市に公共の公園があること自体が珍しかった時代に、
頂上に宮地嶽神社を持つ小高い丘に遊歩道や植栽などを整備した4896坪の
公園としてスタートしました。
勝盛公園が現在の規模になったのは、昭和になってからのことです。
昭和10年1月、麻生の2代目・太賀吉が、
昭和8年12月に亡くなった初代・太吉を記念して、
旧勝盛公園に隣接した8895坪の土地を飯塚市に寄付。
「櫨山(ろざん)遊園地」として開放しました。>
https://www.aso-group.jp/history/achievement_01.html
これで、この丘陵の頂上に宮地嶽神社が
大正10年以前から鎮座していた事が分かった。
何故か、市誌からはもれていた。
この丘陵には古墳もあったということなので、
古代社会でも争奪の対象となるような重要拠点だったことだけが分かった。
<2017年4月23日>
追記
※宮地星が北極星なら、南に何かあると思って探すと、
大将陣山(112m)があり、大将神社が鎮座している。
その近くには「七星」を祀る祠があったという。
やはり北斗七星と宮地嶽勝守神社は関連があるのだろう。
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