2017年 05月 15日
ひめちゃご77 厳島神社 日王山から遷された三女神
ひめちゃご77
厳島神社
日王山から遷された三女神
英彦山からの三女神と大己貴のレイライン。
それはどれもが日王山を経由する。
そこで景行天皇が三女神を祀ったという。
その日王山の祭祀は麓に下りていった。
後光厳天皇の御代、延文年間(1356~1360)のことだ。
アマテラスは福智町神崎の飯土井神社へ。
三女神は飯塚市鹿毛馬へと下った。
それを厳島神社という。
鹿毛馬川から上がって南西の丘に向かう位置が選ばれた。
祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命。
三女神が一所に祀られている。
『福岡県神社誌』では
豊前国の宇佐島から宗像の沖津島に鎮座するとき、
当村、日尾山を越えられたという古実から
景行天皇の御宇に三女神を祀ったとある。
「日王山」の表記は「日思山」だったともいう。
それは三女神が山頂の「方丈の瑞石」に日神を思って
天照大御神を祀ってからの名だそうだ。
烏尾峠の地名由来も、
三女神が道に迷った時、烏に導かれたことからついたという。
地図を見ると、烏尾、船尾、日尾と、「尾」がついた山名が集中している。
これらを「八咫烏」「天鳥舟」「太陽の尾=彗星」と、
なんとなく変換してみた。
近くの田の中には三女神が休憩したといわれる「神休所」という磐座がある。
英彦山からの帰り道、車で走りながら左手に見えたが、写真は撮っていない。
またの機会に撮ろう。
その斜め上に向いた姿は御許山を指す磐座を思い起こさせた。
厳密に測量された三女神レイラインはいったい何を現すのか。
この磐座との組み合わせがヒントになるかもしれない。
が、何かあるという事自体が幻想なのかもしれない。
参拝を済ませて戻る参道の向こうに鹿毛馬神籠石がある。
この史蹟は鉄の生産施設だと確信している。
山城ではない。
列石は二重三重に誤解されてきた。
「神籠石」という名の発祥である『高良玉垂宮神秘書』では結界となっている。
高良山の神籠石は巨大な磐座だ。
そう、磐座信仰が神籠石なのだ。
この「鹿毛馬」という地名は神武天皇にちなむ名だそうだ。
『福岡県神社誌』によると、
神武天皇がまだ狭野命という時に、筑紫をまわるために
豊前国からこの村に来られた。
馬牧から足毛の馬を献上されてその馬に乗って馬見村に向かった。
その姿を老翁が見送ったという。
これからこの村を駈馬村というようになった。
その牧の跡を大石で区域を残したという。
鉄生産施設が後に牧として利用されたと考えているが、
その形状が鉄を生産する熊本の一目神社と全く同じものだという記事は
ずっと前に書いた。
神籠石はひとくくりで論じる前に、個々について精査する必要がある。
山城として論じる人は、どこに主を住まわせて守るのか
一つ一つ説明する必要があると、最近よく思う。
福岡県飯塚市鹿毛馬1088
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日王山には元々、日王神社と日王山常楽寺(8世紀建立)があったようで山中に遺跡の説明看板が以前はありましたよ。
英彦山との関係は『彦山流記』に、
第四十 火尾窟 守護神 火雷天神
との記載があり、この『火尾窟』が日王山の可能性があると思うのですが…。 事実確認は出来ていないので、あくまで個人的見解です。
因みに、英彦山南岳にある摂社 大南神社は祭神 天火明命 = 大南社 本地 不動明王 です。
但し、彦山流記では
第四 大南窟 本地不動明王垂迹
號 大聖天童
となっています。
尚、
京都北野天満宮では、火雷神は『 火之御子社 』の祭神です。
ホアカリがもう一ヵ所祀られているなあと思っていたのですが、大南神社祭神なのですね。
南岳を登ったことがあるので、そのルートを思い浮かべていますが、下の方の苔がきれいな所と尾根の道しか思い出せません。
英彦山は、神と仏と分けて考える必要もあって、かなり難しいですね。
調べてくださってありがとうございます。