2017年 09月 07日
上大利小水城2 積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する
上大利小水城 2
積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する
福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。
このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。
人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。
氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。
祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。 『儺の国の星拾遺』p141
氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。
脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。
積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。
私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。
はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。
のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。
佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。
水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。
夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。
万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140
水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。
閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。
水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。
板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。
谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。
1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。
この話から、上大利小水城を見てみよう。

この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。
土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。
土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。
全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。
手前が下流で、この前まで田んぼがあった。
閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。
今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。

これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。
トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。
しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。
ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。
外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。
この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。
感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。
前文の続きを載せておこう。
この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。
天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140
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