2017年 10月 18日
上大利小水城3 悠紀田・主基田の原型
上大利小水城 3
悠紀田・主基田の原型
悠紀田・主基田(ゆきでん・すきでん)といえば、
大嘗祭の時に卜占される二か所の水田のことだが、
真鍋によると、
原型は瀦水塘(ちょすいとう)を利用した耕作時代にあるという。
すると、瀦水塘とは小水城や水城のことなので、
川を堰き止める土塁や下流にあるプールの存在は
寒冷な時代の倭人の知恵によるものだったということになる。
『儺の国の星 拾遺』p40
<天皇即位の大典に献上する新米を作る所を
悠紀田および主基田という。
昔の瀦水塘耕作時代の名残りである。
悠紀田が上田(うえた)であって、
「ゆき」は冬の間に降り積もった雪とその溶水・湧水を
瀦水するからである。
主基田は下田(すけた)、即ち夏の間の水を受け敷(す)けて
熱水を貯めるからである。>
寒冷の時代、山に積もった雪が川を流れてくる。
その災害を防ぐために土塁で止めて、水を蓄えた。
それを上田といった。
田植えの頃になると、
溜まった水を土塁の下流の下田に流し込み、
太陽熱で温めて田園に流す仕組みだ。
確かに、米作は水温が低いと作れない。
私は水田跡を借りて畑にしたことがあるが、
貸主に水田を放棄した理由を尋ねたら、
水温が低くて収穫できなかったということだった。
福岡でも少し標高があると、このような水温の管理の問題があったのだ。
この体験から、稲作が朝鮮半島から渡ってきたという学説は
妄想だと理解するようになった。
古代の筑紫では雪解け水をいったんプールして
温めてから灌漑していたのだ。
この仕組みが小水城であり、
のちに巨大な土木工事となった水城と考えられる。
悠紀田(ゆきでん)とは雪水の上田が原型で、
主基田は下田(すけた)が「すき」田になったということになる。
古代は不作を考慮して、多種な品種を揃えて、
気候に合わせて何種類も植えたという。
上田と下田は当然品種が異なっただろう。
水城や小水城の一部には土塁を貫通する「木樋」が発見されている。
それを「根太扉」(ねだび)と言ったという。
上田から下田に水を落とすのは寒食から立夏の頃で、
菜種の花や実がついたころだという。
イタドリの葉の色が変わるのもこの頃か。
瀦水塘の閘門(こうもん)の上で渡水が厳粛に執り行われたという。
これを歳祭(としまつり)といい、
百姓が年(とし)すなわち米稲の収穫の平安を
牛飼い座のγ星・セギヌスに祈ったという。
ウィキペディアによると、
牛飼い座は日本では春から夏にかけて見られるそうだ。
牛飼い座といえば、アルクトウルスなら知ってるぞ。
春の星だ。
過去記事
上大利小水城 現地説明会
上大利小水城 2
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