2017年 10月 21日
鎮懐石八幡宮3 夏至の日没が見える宮
鎮懐石八幡宮3
夏至の日没が見える宮
前回のバスハイクで鎮懐石八幡宮に参拝しました。
宮司さんに伺うと、現在の社殿は新たに遷したもので、
元の場所は陰陽石などが安置されている祠の所だそうです。
社殿の手前の見晴らし台が元宮の位置ということになります。
ここからの夕陽の画像をいただきました。
とても綺麗な夕陽が撮れるポイントなのです。
Facebookにも載せられています。
それを見て、(例のごとく)ここは天文観測所だったのでは、
という思いが生まれました。
鎮懐石八幡宮は北が開けていて、北西には姫島が三角形に見えています。
ここから、暦的にいつ日没が見られるのかチェリーさんに調べてもらいました。

やはり、夏至の日没が観測されました。
が、姫島に沈むことはありません。
夏至が過ぎると、日没は左に寄っていくのです。

チェリーさんも次のように説明してあります。
<海に沈む日の入りが見えるのは、夏ということになると思います。
夏至から一ヶ月後の7月21日の日の入りの画像を添付します。
北寄りに移ってきた日の入り地点が、左側に戻ってしまいますね…
日の入り地点の左側は、東松浦半島沖の島々です。>
以上から、ここは夏至を照準に観測できるポイントだとわかりました。
夏至の日取りの決定には星の観測も加味するので、
星没も調べると、面白いことになるでしょう。
ここは神功皇后が安産の祈りをしたというのですから、
支えた海人族がいたはずです。
このすぐ北の志摩には安曇族関連の宮があり、
皇后軍(連合軍)の出兵の地も伝えています。
元宮からは糸島水道に出入りする舟も監視できるのです。
高見台などを設置すれば、かなりの範囲が観測できるでしょう。
ここは夏至日没観測地として記録しておこうと思います。
さて、チェリーさんがさらに面白いラインを見つけました。
この鎮懐石八幡宮を頂点とした直角二等辺三角形の底辺ポイントに
神社があるというのです。

それは壱岐島の女嶽神社と宗像大社の辺津宮です。
逆様の三角形になります。

以下はチェリーさんのメモです。
<女岳(女嶽神社) → 鎮懐石八幡宮旧社地 南東134.96°距離 50.221km
女岳(女嶽神社) → 宗像大社辺津宮 東89.88°距離 70.874km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 宗像大社辺津宮 北東44.98°距離 50.180km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 縫殿神社 北東45.00°距離 48.002km
壱岐の女岳(女嶽神社)から宗像大社辺津宮の西側の山稜は見えるようです。
ただ、真東よりは、少し誤差があります(0.12°ですけど)。
でも、この誤差の範囲であれば、直角二等辺三角形と言えると思います。
(頂角は89.81°になります。)
ただ、その意味するところは、不明です。>
縫殿神社がライン上に乗っています。
この縫殿神社は江戸時代に遷宮して山の中に鎮座していますが、
元宮はすぐ近くの畑の中にあり、やはりラインに乗ると思います。
鎮懐石八幡宮からは壱岐の山も見えるそうですよ。

<カシミールの判定では、壱岐の山が見えます。
200mm望遠相当の画像を添付します。>
チェリーさんのお陰で、古代の太陽観測地のデーターが
少しずつ集まってきました。
真鍋の本をより理解するためには、
神社と天文観測地の理解がとても役に立ちます。
いつも、ありがとうございます。
地図は国土地理院発行のものを、
立体図はカシミール3Dを使用しています。
『神功皇后伝承を歩く 下巻』62 神功皇后は石を腰に挟んで出産の遅れを祈った
<2017年10月21日>
<鎮懐石八幡宮><祭祀線>
糸島市二丈深江2310
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伊勢の夫婦岩から見て、夏至の太陽が、富士山の左側の山腹から昇ります。複数の方が写真を撮ってみえました。カシミール3Dで再現してみたところ、ピタリと一致しましたので、カシミール3Dが示す太陽の軌跡についてはOKだと思います。
姫島の右側に見えている壱岐の山は、右が男岳、左が女岳です。男嶽神社と女嶽神社がそれぞれの頂上部に鎮座します。猿田彦御夫妻ですね。ですからこれは夫婦岩と同じように「夫婦岳」ということになるんじゃないでしょうか…

櫻井神社と壱岐の女岳を直線でつなぐと、櫻井神社から海は見えないんですけど、もう少し海寄りの丘陵に登ると見えるんです。そこから夏至の日に、ちょうど女岳に日が沈むんですけど、どうなんでしょうか?
櫻井神社から、逆に内陸の方に「天ヶ岳」という山がありますけど、ここからも同じように、壱岐の女岳に夏至の太陽が沈みます(もう少し右の、男岳との間かな)。このピークは「女天ヶ岳」なんだそうです。すぐ西に「男天ヶ岳」という標高250.9mのピークがあるんですが、ここからもやはり、壱岐の女岳に夏至の太陽が沈みます。
うーん、それから、このあたりは「志摩」と言う土地なんですね。伊勢の夫婦岩のすぐ隣も「志摩」なんです。「伊勢志摩」とまとめて言うことが多いです。伊勢の夫婦岩のあるあたりは一般的に「二見が浦」といいます。
伊勢の夫婦岩を祀るのは、すぐ海岸にある「二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)」です。猿田彦大神を祀ります。
男と女が交錯してますねぇ…男と女の間にはふかくて暗い河がある…
糸島の伊都も伊勢の地名が残っています。
書紀ではイソがなまって伊都となったとも。
たまたま、二見ケ浦から内陸部の道を通ったとき、
三角錐の山と烏帽子型の山が並んでいるのを見ました。
その山でしょうか。
二山の祭祀は南から行われたのではないかと、その時、思いました。
伊勢志摩と糸島の「ふたみがうら」は猿田彦とウズメが絡んだ転写かもしれませんね。
ごめんなさい、訂正があります。
壱岐の女岳(女嶽神社)から宗像大社辺津宮へのラインを、方位角のラインとしていましたが、太陽祭祀の可能性の方が強いことがわかりましたので、謹んで訂正させていただきます。
「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしてあります。
長い記事ですので、本当にお暇なときにチラッと御覧くださいね!
糸島の天ケ岳は二つとも 登ったことを思い出しました。
急峻な方は石ころを落としながらの危険な登山でした。
でも、頂上に古墳の石室のようで小さな石組がありました。
その内側には朱の色が残っていました。
石室にしては小さかったのですが、見張り番はこの石組で風を避けただろうなとか、思ったものです。
どちらがどちらか今では不明ですが、最後は手をつきながらの崖登りでした。

登られた方達のレポートが複数ありますが、かなりの急登だということがわかります。六ヶ岳を歩いた時も、こんな感じでした。
登られてる皆さんは、低山愛好家の方達のようですが、lunaさんはどうして天ヶ岳に登られたんですか?
やっぱり、夢で「登れ」と言われた方があって、一緒に登りました。
地元の方に偶然に案内さしていただいたのですが、それは楽な方の山で、下山してもう一度急な方に登り直しました。
時間は大したこともなかったのですが、登山道がなかったので、石を落としながら登ったんです。だから覚えています。

「天」の岳という意味があるのかもしれませんね…
遥拝所とかあれば少し分かるかもしれませんね。
やっと続きをupしました。「志摩の日の入り・伊勢の日の出 その3」です。
今度は伊勢の「夏至の日の出」です。壱岐・糸島と対になりました。
お暇なときにチラッと御覧くださいな。
「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしてあります!
ようやく続きをupしました。「志摩の日の入り・伊勢の日の出 その4」です。
とても珍しい「祭祀線の合流」というお話なんですが、伊勢のお話なんです。
ですので、本当にお暇なときに、チラッと画像だけでも御覧くださいな。
「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしてあります。
糸島の志摩と伊勢の志摩という地名のつながりから発しただけのお話なんですが、他に何がつながるんだろう?
どちらも夫婦岩があって、多分、月と太陽にお祈りする人々がいて、という感じかなぁ…
伊勢で夏至の日の出を見て、糸島で夏至の日の入りを見るというツアーは、飛行機を使えばできなくもないですねぇ…
ごめんなさい、佐田京石を急いで書きますね!
すご~く納得です。
基盤の話とか、驚き。
伊勢と糸島の二見ケ浦をつなぐ一日ツアーは既に催行されてますよ。伊勢で朝日、糸島で夕陽というのを。
今年はあったのかな。
佐田、ゆっくりどうぞ。

どちらも見所満載ですね!じっくりと何日かかけたいところですねぇ。
下関市豊北町二見というところにも夫婦岩があるようですが、ここは沖ノ島の真東なんですよ!直接見えないですけど…
いつも新しい地理にびっくりです。
最近読んだ新聞記事の話ですけど、いいですか?地域的に近いですので、続けてここに書かせてくださいね!すでにご存知でしたら、ごめんなさい!
8月28日の朝日新聞朝刊に「渥美半島に「骨太」縄文人集団」という短い記事がありました。愛知県の話ですので、こちらにしか掲載されないかもしれません。
縄文晩期の「保美(ほび)貝塚」という遺跡(愛知県田原町)から出土した22名の縄文人の上腕骨全てが、極端に太いのだそうです。
近隣の遺跡と比べても太いのだそうです。保美貝塚からは外洋の魚やアシカの骨が見つかり、二上山(奈良)のサヌカイトも多く見つかっているそうです。
近隣の集団よりも外洋航海に長けていて、重量物も多く運んだので、腕が太くなったと推定されているようです。
さて、記事では触れられていませんが、私が注目するのは「渥美」です。ここは「安曇族」が移り住んでその名前が付いたとされる場所のひとつなのです。
神社や地名に「安曇」の痕跡が見られるのは、渥美半島の付け根にある「豊橋市」なのですが、渥美半島先端部の地にもその証があったのかもしれない…
この新聞記事の元となったであろう記事をネットで見つけました。「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしてあります。
記事の中に驚くべき指摘がありました。保美貝塚の縄文人集団に次いで「マッチョ」だったのは、北部九州の玄界灘集団だったのだそうです!
※少しだけ続けます。長くなって、ごめんなさい!
渥美半島先端部の保美貝塚が、安曇族が移り住んだ場所だとすれば、その時期は縄文晩期以前ということになると思います。安曇族の全国展開時期の手がかりになるのでは?と思いました。
更に、ここに住んだ人々の信仰の手がかりもしれない遺構が発見されていました。
東海地方初の発見になるようです、「環状木柱列」らしき遺構が見つかっているのです。
豊橋市の「安曇」と類似した名称地と方位角の関係があります。実は、富士山と伊勢神宮内宮をつないだラインにも近く、夏至の太陽は富士山の右肩近くから昇ります。
環状木柱列については田原市教育委員会の記事が詳しいですので、「チェリー」の名前をクリックすれば開くようにしてあります。

渥美は本当に安曇なのでしょうか?
岐阜や滋賀の安曇候補地も、ボチボチ調べてますので、まとまったら、また御報告いたしますね!
とりあえず、豊橋市中心部の安曇候補地(飽海町とか安久美神戸神明社とか)とラインが取れそうなので、何か出てくるかもしれません…
縄文人の言語が残されていないので、何とも言えないのですが、アツミはアヅミの濁音の無表記なので、アヅミと関連があると思います。
縄文人がいた所に安曇族が入った、と別々に考察する方が上手くいくかもです。
玄界灘の縄文人って、どこの遺跡かなあ。山鹿の縄文人なら響灘ですが。