2017年 11月 03日
ひめちゃご104 始まりの宮へ
ひめちゃご104
始まりの宮へ
物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。
「ひめちゃご」の始まりの宮だ。

真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。
狭い車道を北上した。
この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。
ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。
民家の前を通って

狭い参道を上っていくと、

見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。
ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。
この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。
八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。

その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。

神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。

ところが、他はどうだ。

波と花に埋め尽くされていた。
いかにも女神の装いなのだ。
ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。
この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。
町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。
この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。
この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。
町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。
<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>
総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。
時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。
<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。
明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。
市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。
神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。
恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。

さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。
『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。
<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。
これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。
このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。
晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。
ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。
星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。
この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。
この始まりの宮で筆を置こうと思う。
すでに、次の巻物が開かれている。
何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。
終
<2017年11月3日>
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