2018年 02月 13日
『肥前風土記』小城郡 おきのこおり
『肥前風土記』
小城郡 おきのこおり
さて、3月4日の歴史講座の話をいただいたとき、佐賀ではあまり古代史が話題にならないと聞いた。幕末の研究が盛んらしい。
私にとっては、佐賀は『風土記』の国だ。
『肥前風土記』は現存する5つの風土記のうちの一つなのだ。
誰か、『肥前風土記を歩く』のようなガイドブックを書いているのではないか、と思ったが、どうだろうか。そんな話にまだ出会っていない。
今、『肥前風土記』を開くと、景行天皇の話がたくさん出ている。
それから、日本武尊、そして神功皇后。
この三人のことを知っていれば、流れが分かるといっても過言ではない。
大分の『豊前風土記』もほぼ景行天皇の話だ。
いったいどうしてこの天皇に照準を当てているのだろうか。
二つの風土記は景行天皇が九州を武力で統一する物語とも読めるのだ。
逆の立場でいえば、女王国がいくつもあって、小さな小競り合い程度で暮らしていた時代、強大な武器と軍勢を持って戦いを挑んできた侵略者。
それが景行天皇ということになる。
ブログを書きながら、折々に佐賀の古社を訪れて蓄積したものがあるが、今あらためて『肥前風土記』を見ると、7割は網羅したような印象だ。
そして、空白になっているのが、小城だった。
「小城」の読み方が分からない人も多いのではないだろうか。
「おぎ」と読む。
何故「小城」と書いて「おぎ」と読むのか。
昔の人も同じことを思ったのだろう。
『肥前風土記』にはその理由が書かれている。
「昔、この村に土蜘蛛がいた。堡(おき)(とりで)を造ってこもり、天皇の命に従わなかった。日本武尊が巡幸された日に、みなことごとく滅ぼされた。それで小城の郡と名付けた。」
天皇とは景行天皇のことだ。日本武尊はその皇太子だった。
景行天皇に従わなかったクニを日本武尊は討伐していった。
小城の土蜘蛛は堡(オキ)に立て籠もって抗戦した。
その「オキ」が「オギ」になったという。
原文が今手元になく、確認できないが、
「堡はいにしえには乎岐(こぎ)と訓ずれば、改めて小城と申す」
という一文があるようだ。
土蜘蛛は何処に砦を造っていたのだろうか。
多分、地形にその答えはある。
日本武尊によって小城の土蜘蛛は滅ぼされた。
これは『脇巫女』の時代ではないか。
鞍手から船に乗って戦い、鞍手に戻っていく日本武尊。
まだまだ、『脇巫女』の続き、知らねばならないことがあるのだろうか。
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