2018年 03月 02日
ウーナ19 天山3 晴気天山神社
ウーナ19
天山3
晴気天山神社
天山神社三社の中央に位置する晴気(小城市晴気(はるけ)3563)について、
『小城郡誌』を読んでみよう。
<郷社 天山社
春田村大字晴気字本山にある。
祭神は多紀理毘売命、狭依理比売命、多岐津比売命である。
参議藤原安広は文武天皇の口宣をこうむり、大宝2年(702)10月15日天山池の中に島を築き、蓬莱島と名付け、上に祠を建立して天山神の上宮と定め、下宮を靈貴山(一名烏帽子嶽という)に建立す。>
とある。
市杵島姫の名が狭依理比売命となっているのが特色だ。
烏帽子嶽の天山池に蓬莱島を築いて祠を建立して上宮としている。
これは何処だろうか。
伊万里に名が見えているようだが、よく分からない。
それから300年後のことが書かれている。続きを見よう。
<長保4年(1002)、康家は烏帽子嶽の下宮を当所に遷座し、諸祭祀を興した。
建立当時には文武天皇の口宣をいただいて小城郡神祇官領を下され、次に永代神領として郡内居住の四方三百町を寄進された。>
とある。ちょうど300年後に、烏帽子嶽の下宮が現在地に遷座している。
これが晴気の天山神社の起こりとなる。
郡誌はさらに別伝を記録している。
<肥前古蹟集
大宝2年(702)霜月15日、弁財天が天山岳に飛来した。本山烏帽子ケ岳に影向された。ここを宮床と名付ける。(略)>
<長崎県肥前国小城郡村誌
郷社、村の北内浦にあり。今の本社は天山社の下宮で、畑田ケ里天山絶頂9合目にあり、高山にあって、修繕保護が困難なため、中古に下宮の地をもって云々>
とある。地元の方でないと詳しい地理は分からないが、晴気の天山神社はもともと山にあったものが300年をきっかけに現在地に移ったということだ。
その時、宮の鎮座地を決めるのに、チェリーの指摘するように、明星山と岩蔵天山神社の延長上を測量して決めた可能性は十分あることになる。

日付を前述の岩蔵天山神社と突き合わせてみよう。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
10月15日 藤原安広が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)
これに加えて、天本孝志(九州の山と伝説)によれば、小城郡禅定山に弁財天が来現し、「大唐」の弁財天と名乗ったとある。
702年に「トウ」から来た神の託宣があり、「東海」か「唐」か、解釈が分かれたようである。ただ、市杵島姫(弁財天)であることは一致していることになる。
また、天本は「晴気城城主千葉氏は所領(300町)が、古くから筑前宗像神社の社領だったことから、足利側についた宗像大宮司氏俊に味方したと言われている」と記していて、宗像神社の社領が当地にあった話を残している。これは意外な話だ。やはり、宗像とも関わりがあることになる。
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