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ウーナ20 天山4 広瀬天山神社 祭神は天御中主尊だった



ウーナ20

天山4 広瀬天山神社

祭神は天御中主尊だった
 


今回は天山神社三社の西に位置する広瀬(唐津市厳木町)について、『東松浦郡史』(大正14年)を読んでみたい。

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驚いたことに、祭神がこれまでの二社と全く違っていた。
いったいどういうことだろうか。
まずはその記事を読んでみよう。

<天山宮 厳木村字広瀬
祭神 天御中主尊、稚産靈尊(わかむすび)、倉稲魂尊(くらいなだま)
天山嶽の麓、小城郡二社、松浦郡一社嶽の艮(うしとら)にある。 
祭日11月2日

記事にいわく、
そもそも人王41代持統天皇の御世に、鎮西に船が来て、対馬が異国風俗の者に奪われようとした。

そこで参議藤原安弘が勅命をたまわって退治した。この時、天皇からの恩賞として晴気の里を賜った。民は安弘の徳を慕って集まり、天山の下に住んだ。

そこで安弘は天御中主尊を天山の嶺に祠を建てて祀り、庶民の擁護と五穀豊穣を祈った。

そののち、文武天皇大宝元年(701)11月15日、安弘勧請の天御中主尊を広瀬、本山、岩蔵に勧請し、三か所を天山宮とした。山上を上宮、下を下宮と呼ぶ。>

このように広瀬の祭神は弁財天ではなかった。天御中主尊だったのだ。
藤原安弘が天山山頂に尊を祀り、広瀬、晴気、岩蔵の三社を下宮社とした。

これはいつのことか。
持統天皇の在位を調べると690~697年となっている。
この頃、対馬が異国人に奪われようとしたため、参議の藤原安弘が勅命を受けて敵を退治し、その褒美として晴気の領土をもらった。これを機に民が晴気に移り住み、民の安寧を祈願して天御中主尊や五穀豊穣の神々を祀ったという。

それから701年11月15日に、下宮三社を創立した。
この時までは天御中主尊が祭神だったことになる。

ところが、前回まで調べたように、702年に岩蔵で光と水と神託の奇跡が起こってから三女神信仰が加わった。こののち、人々の間では女神信仰が広まったのだろう。
いつしか、天山は三女神となり、弁財天となった。

しかし、厳木の広瀬天山神社にはその影響が及ばなかったのだろう。当初のままの神が祭祀されていると考えられる。

昔から天山の祭神の論争があったようで、<俗に弁財天と称するは非なり>とも書かれている。


晴気の里が褒賞だとすると、当時、何か産業があって大きな価値があったことが想像される。

持統天皇も、父の天智天皇が佐賀(田手神社)に来たことがあるし、本人も朝倉橘広庭宮に付いて来ていたはずで、この辺の土地勘があったと考えられる。

702年に起きた光と湧水と神託の奇跡がダイレクトに帝と持統太上天皇に届いて、その反応が早かったことを不思議に思ったが、藤原安弘が参議正三位民部内大臣で、天皇と直接会える身分だったことを考えると、当然の事となる。


予習してみると、想像だにしなかった歴史があった。
この話はその後のいろいろな事件を理解するための重要なキーワードになりそうだ。



年表
690~697年 参議藤原安弘が対馬を奪おうとした敵を退治して晴気を褒賞としてもらう。
701年 11月15日、藤原安弘は広瀬、本山、岩蔵に天御中主尊を勧請する。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
    10月15日 藤原安弘が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
    11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
    10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)




小城の天山神社三社に天河弁財天の年表を加えると、面白そうですね。
小城鍋島家Tenでの歴史カフェ第1回で整理しましょう。

それでは明日、佐賀の皆さん、お会いするのを楽しみにしています。





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by lunabura | 2018-03-03 20:54 | 「ウーナ」 | Comments(6)
Commented by くじら at 2018-03-05 02:54 x
小城でのご講演、お疲れさまでした。

新唐書に記述がある、『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。』
( 王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。)

矢野一貞は更に明星山の史跡につき、次のように述べている。
「上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。
筑紫君も代々当山に処る。」(ひもろぎ逍遥)

このふたつの文を見比べるに、明星山に天御中主を初代とし、
筑紫氏に至る、筑紫城があったのでは? という想いを抑えることが
出来ずに困っています。
Commented by g22 at 2018-03-05 20:07 x
小城おつかれさまでした。
癒しパワー すごかったです☆
対馬藩主が宗氏 いみじくも宗像さんの宗 ついているのと関係ありますか? 胸形だったのに。。
いつも 自由発想すいません。。。
Commented by lunabura at 2018-03-05 21:08
くじらさん、こんばんは。
天山に初めに天御中主尊を祀って、その下宮三社が明星山から引いている謎も、筑紫君が明星山に天御中主尊を祀っていたとしたら、可能性は高いですね。アメ=アベ(安曇族)で、志賀島の沖津宮の天御中主に繋がってきますし。
Commented by lunabura at 2018-03-05 21:25
g22さん、ご参加ありがとうございました。
胸肩が宗像に変わるのも、最近変だなと思い始めていました。胸肩もまた阿部氏だったので、何らかの断絶が感じられます。
安曇族は対馬からなので、g22さんの指摘も大事なところを突いているのではないでしょうか。
Commented by チェリー at 2018-03-06 01:29 x
現在の天山神社上宮も、池のほとりにあります。テラスのようになっている場所ですので、昔から池だったのではないかと思います。もう少し池が大きい頃があったとすれば、上宮は真ん中の島になっていたのかもしれません。
ここは、天山のというよりも、その隣(南西)の996mのピークの少し下になります。「あめ山」といいます。多久市から見るとちょうど「烏帽子」のように見えるのですが…でもこの頂上に下宮を置いたのだとすると、上下逆転しちゃいますよね…
ちなみに、犬岳から上宮は 300.00°の方向になるのですが、犬岳から「あめ山」でも 300.03°です。犬岳は「あめ山」が 300°の方向に見える山として重要視されたという可能性もあります。
Commented by lunabura at 2018-03-06 21:11
ピーク同士が意味のある角度を取るのは本当に不思議ですね。
でも、ここで何らかの意味が解けそうな気配もありそう。
いろいろとありがとうございます。
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