2018年 03月 10日
ウーナ21天山5 広瀬天山神社 驚愕!安弘とは房前すなわち不比等の子だった!
ウーナ21
天山5 広瀬天山神社
驚愕!安弘とは房前すなわち不比等の子だった!
『東松浦郡史』(大正14年)の広瀬の天山宮に「黒尾大明神」という末社のことが書かれている。
そこには、
藤原安弘があの房前(ふささき)公の諱(いみな)だ、と書かれていた
(驚愕)!!!
まさかのビッグネームの登場だ。
安弘とは、のちに内大臣になる房前のことだったのだ。
藤原房前の父は藤原不比等。その父は藤原鎌足だ。
房前は藤原四兄弟の一人なのだ。
公に出てこない歴史が当地にあったことになる。
「東松浦郡史」をまずは訳そう。
<黒尾大明神
右は末社である。参議正三位民部内大臣藤原安弘がこの神で、天山宮の社司の祖である。すなわち房前公の諱(生前の実名)である。
藤原姓の祖とする神である。
天平神護元年(765年)(称徳天皇の)勅宣をたまわって、安弘公を黒尾大明神とした。>
藤原房前は681年生まれ、737年に56歳で薨去。
ここに天御中主命を勧請した701年は21歳の時になる。
この年、父・不比等は43歳。文武天皇は19歳。持統太上天皇は57歳。
房前はその直前に対馬で戦って勝利したことから、天山に関わってくる。
天山神社の由緒には「勅」という字がたびたび出てくるが、これは「天皇の命令」を意味する。
天山神社の三宮は、天皇家が格別な意味を持って勧請したことになる。
チェリーが指摘した強い意志は天皇家の意志と置き換えられる。

中央の「晴気」はあとでラインに乗って来たが、意図してそのライン上に遷ったといえよう。
始まりは明星山と岩蔵、広瀬のラインだ。
明星山は「ひめちゃご」で散々調べた山だ。
くじらがコメントをくれた。
<新唐書に記述がある、『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。』
( 王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。)
矢野一貞は更に明星山の史跡につき、次のように述べている。
「上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。
筑紫君も代々当山に処る。」(ひもろぎ逍遥)
このふたつの文を見比べるに、明星山に天御中主を初代とし、
筑紫氏に至る、筑紫城があったのでは? という想いを抑えることが
出来ずに困っています。>
阿毎は阿倍と発音は同じで、阿倍磐井と通じる。
安曇族だ。
その安曇族は志賀島の沖津宮に天御中主を祀る。
佐賀の天山神社は明星山の神を引いている。
ただ、明星山の神は未詳だ。
しかし、佐賀の天山神社が当初、天御中主を祀っていたのだから、明星山には天御中主が祀られていたと推定できる。
驚きの連続だ。
そして、小城の「晴気」という所は天皇家がその価値を知っていて下賜した所となる。
晴気にはどんな価値があったのか。
現地入りが必要だが、おそらく鉱物資源や武器工房があったのではないか。
鉄、銅、金あるいは水銀か。
祀られる神が分かればある程度推測できるのではないかと思われた。
天山神社年表
690~697年 参議藤原安弘が対馬を奪おうとした敵を退治して晴気を褒賞としてもらう。(安弘は藤原四兄弟の一人、房前のこと)
701年 11月15日、藤原安弘は広瀬、本山、岩蔵に天御中主尊を勧請する。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
10月15日 藤原安弘が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)
烏帽子嶽をチェリーが調べてくれている。現地の人が調べるのが一番良いのだが。
晴気で何も見つからなかったら、可也山から晴気天山神社への真南のラインもチラッと思い出してくださいな。(179.98° 距離 28.736km 真南との誤差 約10m) です。
可也山はラインがたくさんある山で、例えば志式神社から 239.99° (距離 26.309km 240°との誤差 約5m) になります。
藤原房前のお母様に海女の玉取り伝説があるようで、関連があるかも!詳しく書いている方がみえますので、そのサイトをご紹介しておきますね!「チェリー」の名前をクリックすると、つながるようにしてあります。
行基が出てきてびっくりしました。
小城鍋島家Tenでの話の中に、行基が二度も出て来たのです。
当地での供養をしているようで、まさか房前と同時代とは思いもしませんでした。
房前も海人族の子とすると、対馬で戦うのも母方の援助あってのことと読めます。
次々にいろいろと出てきて立体的になってきました。
私の想像なんですが、可也山を大切にしてきた人々が、ラインに従って、真南の晴気の地に移住したような気がします。同じような例が尾張にあります。ラインの示す方向に進んで、別のラインと交わった場所に移住する。尾張国一宮 大神神社です。
「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしましたが、これは本当にお暇なときに覗いてやってくださいね!
でも、お暇なときがあるのでしょうか…
行基は筑後や佐賀にかなり痕跡を残しています。
怨霊静めの役割が大きいようです。
房前にしろ、重要な人物がけっこう見られるので、これを機に少しずつ調べていこうと思います。
ラインが出たら、またお願いします。
「烏帽子嶽」の候補のひとつとして、天山の南西隣のピーク「あめ山」がどうかなぁ…ということで記事を書いたのですが…
三角形に見えるピークを探してみたのですが、たくさんあって、とても形だけでは特定できないです。晴気天山神社からだけでもふたつみっつあります!
で、「あめ山」が意外に大切だということから書いてみたんですが…大混乱で終わってしまいました…
「チェリー」の名前をクリックすると開くようにしてありますが…









