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ひもろぎ逍遥

ウーナ32 持統天皇2 草壁皇子は福岡生まれ



ウーナ32

持統天皇2 

草壁皇子は福岡生まれ
 


草壁皇子が福岡生まれとなると、がぜん、身近に感じてしまう。
これまでは全く遠い存在だった。
私たちは九州の歴史の、何を、いったい知っているのだろうか。

タイトルは草壁皇子だが、その母の持統天皇の筑紫滞在などを考えてみたい。

持統天皇がまだ鸕野讚良(うののさらら)と呼ばれていた頃の話だ。

夫の天武天皇は大海人皇子と呼ばれていた。

鸕野讚良が大海人皇子に嫁いだ時、13歳。
今なら中学1年生。
夫は27歳。
夫は既に宗像徳前の娘と結婚していて長男がいた。
長男は既に数えで3歳。
可愛いさかりだ。

通い婚の時代なので、鸕野讚良はその男の子を見ることはなかっただろう。

父の中大兄皇子は32歳。
時の天皇は斉明天皇、64歳。
斉明天皇はどのような考えで孫を自分の子と結婚させたのか。
同じように嫁がせたのは鸕野讚良だけではなく、他にもいた。

鸕野讚良に子が授からぬまま、4年後の661年に
筑紫の倭王に呼ばれて斉明天皇一族は筑紫に渡る。


斉明天皇は661年に筑紫の朝倉に到着した翌日、宮地嶽神社、
次の日には福成神社と、落ち着く暇もなく精力的に先勝祈願をしてまわった。

この時、父の中大兄皇子の名は福岡や佐賀に若干残るが、
大海人皇子の名は見当たらない。
その名が各地に出てくるのは天武天皇に即位したあとになる。




鸕野讚良は筑紫で懐妊し、出産した。
18歳になっていた。
百済の滅亡や百済王子の返還など、不安な情勢の中でのことだった。



鸕野讚良が草壁皇子を出産したころ、父の中大兄皇子は筑紫で天皇に即位した。

663年の白村江戦の敗戦を耳にしたとき、鸕野讚良は19歳。
数えで2歳になった皇子を抱きしめた事だろう。
倭国はこれからどうなるのか、と。

そして、再びの戦いは国内戦。
自分たちに直接、降りかかってきた。

壬申の乱だ。

吉野に逃れる夫。
鸕野讚良は子を連れて付いていった。
この時、鸕野讚良は28歳になっていて、自分で決断することが出来た。
子は11歳。

戦いは勝利した。

鸕野讚良が45歳になった時、夫の天武天皇は崩御した。
そして、みずからが即位して持統天皇となる。
愛する我が子はその3年後に28歳で薨去してしまった。
689年のことだ。

その頃、対馬に異国の風俗の者たちが乗り込んできた。
その討伐を不比等の子に命じた。
のちの房前(ふささき)だ。

房前が討伐に成功すると、褒賞として佐賀の天山の麓「晴気の里」を与えた。

そこからは次々と良い知らせが来た。
天山に天御中主を祀ったのち、光が飛んできて四方を照らし、
童女が神懸かりして国家鎮護を約束すると、泉が湧き出した。

この時は既に持統天皇は孫に天皇の座を譲り渡していた。
孫の治世の安泰を心から願ったことだろう。

701年、厳木(きゅうらぎ)の広瀬で天山神社が創建された時、
持統太上天皇は57歳。文武天皇は19歳。

2年後、持統太上天皇は崩御。天皇初の火葬を選ぶ。

神道と仏教。
持統天皇は二つの世界にすがって生きて来た。

天山と持統天皇の接点は?

筑紫滞在の間に、天山の険峻な姿を筑後川の対岸から眺めたのかもしれない。

朝倉からは見えるだろうか。
山門県からか。
あるいは吉野ケ里の南の田手神社からか。

見知らぬ土地で夫と父を頼りに幼子を抱いて背振から天山を眺めた
ーそんな持統天皇の姿が浮かんでくる。

<20180417>




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by lunabura | 2018-04-17 21:17 | 旧「ウーナ」 | Comments(0)

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