2018年 05月 01日
ウーナ35 天智天皇
ウーナ35
天智天皇
額田王が愛したのは大海人皇子。すなわち天武天皇だったという。
このあと、天武が出てこようとしたが、押しのけて出て来たのは天智だった。
菊如が私に「質問をして」というが、当時、私も天武と天智の違いさえよく分からなかった。
「てんちてんのうですか」
と尋ねると
「てんじ」
と訂正された。
次からは一問一答。すでに一部は「ことのかたり」に書いている。
「何故、朝倉に遷宮したのですか」
「朝倉は大事な地だった」
「遠賀川の磐瀬宮には何故来たのですか」
「磐瀬には船で来た。嵐に巻き込まれて海を回って来た。船が壊れて修理をした」
「長津宮はどこですか」
「佐賀の地だ」
これを聞いて驚いた。長津宮は真鍋は那珂川町、通説は高宮とする。訳が分からなかった。受け入れられずに「ことのかたり」では省略していた。
ところが今、こうして読み直してみると、まさに小城の歴史カフェとリンクしていた。
そう。
天山神社の創始には天智の娘、持統天皇が関わっていた。
持統天皇は大津宮で出産しているのだ。大津=長津と思っていたが違うのだろうか。
天智も佐賀の吉野ケ里の田手神社に来ているので、持統も付いて来たか、あるいは話を聞いていて土地勘があるに違いないと予想しているのだが、まさか、この結願に既に佐賀の名が出ていたとは思いもしなかった。
持統は小城の晴気(はるけ)の価値を知っているのは間違いない。
晴気には何があったのか、という問題が気になるのは、やはり知られるべき歴史が佐賀にもあるのだろう。
メモを見ると、このあと、私は戦う前の状況を尋ねているが、「船」「馬」という単語しか書き取っていない。
それから倭国と日本国の関係を尋ねた。答えは意外なものだった。
「日本は三つの大きな部族でできていた。日本国。倭国。青い目をした者たちの国」
三つ目が蝦夷(えみし)ではないかと思われた。平安時代にも異国として扱われている。
私は続けて物部の目の色を尋ねた。
「物部の目は何色ですか」
「黒だ」
「あなたの目は?」
「青だ」
ああ、ヤマトタケルと同じ目の色。驚いてばかりで思考が停止した。そのあと天智が自ら語った。
「天武とは母が違う。日本国はヤマトの国だ。
筑紫にはいろいろな国の者が入ってきてもめておった。新羅の船も襲ってきておった」
「唐と戦うための布陣はどこですか」
「本陣は長崎の諫早にあった。もう一か所は門司~山口あたりだ。
我らの船団は七艘だ。倭国の船の方が多かった」
「船には帆柱がありましたか」
「われらの船には3本の帆柱があった。我は航路をいつも考えておったぞ。九州の東から南回りで長崎の方に出る航路があった」
「白村江の戦いの時はどこにいましたか」
「我が船も百済に行った。が、この地、福岡に流れ着き、助けてもらった」
「白村江のあとは、日本はどうなったのですか?」
「新羅の後陣が倭国に向かい、二回攻撃してきた。唐は来なかった」
以上、全く想像もしていなかった世界が語られた。
日本書紀には書かれていなかった事が沢山ある。
確かに、唐と戦うのなら、諫早は適地だ。
これらを丸々信じる訳にはいかないが、日本書紀もまた丸々信じる訳にはいかなかった。
分かったのは、この時代を旅する必要があることだ。
滅びた倭国のトラウマを知る必要があるのだろう。
―2016年5月―
<20180501>
異世界小説