2018年 05月 05日
ウーナ37 持統天皇3 31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか
ウーナ37
持統天皇3
31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか
持統天皇が崩御する前年の701年に厳木町広瀬の天山神社は創建された。
実は、私自身が奈良の天河大弁財天社に行った時、宮司に「奈良吉野と同じ地名が佐賀にある」事を話すと、「毎年、佐賀の天山神社に参拝している」と伺った。
当時の私は天山登山を二度試み、一度目は霧で、二度目は突然の雷雨のために断念していた。
だから天山といえば登山のイメージを持っていたので、天山山頂だろうと思いこんだ。
天山神社には三つの下宮があることを今知って、いったい何処に参拝されていたのか、思いを馳せている。
天山(てんざん)と天河(てんかわ)の関わりは深い。
その天河は吉野にある。
さて、持統天皇の話に戻るが、天皇は自ら吉野行幸を行っている。生涯で31度もの吉野行幸を行ったという。701年も行われた。
吉野は夫の天武天皇が壬申の乱で逃げ込んだ時、持統天皇(讃良皇后)も随行した所だ。そこで、天武天皇は國栖(くず)から腹赤魚を献上されている。
そこで思い出されるのが「ひめちゃご」で登場した「釣殿宮」のことだ。
みやま市(旧山門郡太神)の「釣殿宮」は別名「腹赤宮」という。物部の天文観測所と思われるが、ここで景行天皇や天智天皇が漁師から腹赤魚を献上された。
この腹赤魚を見て喜んだ天智天皇は「毎年朝廷に献上せよ」と言い、のちには大宰府経由で節会(せちえ)に献上されるようになった。
節会では皆でそれを食す。
この腹赤魚とはウグイのことだが、この魚を天智天皇が何故それほどに喜んだのか。その謎は読者の方々からいただいた数々のヒントで解けた。
腹赤魚という名は産卵期になると腹が赤くなることからついている。
この腹赤魚は北天に出る赤いオーロラ(赤気)の象徴だったのだ。
北天は天帝の座、紫微宮とされている。
そこに出る赤いオーロラは、天帝による「天皇即位を許可する知らせ」のシンボルと解けたのだ。
天武も持統も筑紫にいて、天智の即位の状況を見守っていて、腹赤魚の意味を良く知っていたはずだ。
だから、逃げ込んだ吉野で国栖(くず)に腹赤魚を献上された時、すぐに意味が理解できたのだ。「天皇即位の許可は我に下りた」と。
筑紫と奈良に共通するのは「国栖」の存在だ。国栖は福岡では河童と呼ばれた氏族だが、天文観測に長けていて、占星術が出来たという。
國栖は占星術により、壬申の乱が天武天皇の勝利になると読み、「腹赤魚の献上」によって結果を知らせたのだろう。浄御原神社では今でもウグイが献上されている。
天武天皇の崩御後、愛する草壁皇子も失い、政争に明け暮れる朝廷にあって、持統天皇は生きていく術を占いに求めたのではないか。
そして、さらに修験者に出会い、祈祷を頼みにして吉野行幸を繰り返したのではないか。
自分の犯した罪、父の犯した罪、などなど、神道には存在しないカルマの思想も学んだことだろう。
自分の死後、天皇初の火葬を望んだのがその証拠だ。
この時代、役行者も生きていた。701年に大赦を受けているのも、持統天皇の判断による可能性も考えたい。
次々に襲ってくる困難を国栖や修行僧の占いと祈祷で、乗り切ろうとする一人の女性の細い肩が浮かんでくるのである。
それが31度もの吉野行幸の目的であると考える。
<20180505>
異世界小説
歴史カフェ小城
第2回 5月12日(土) 3時~5時
1部:天山神社 創建の人たち
2部:神功皇后の伝承 香椎宮への遷都
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