2018年 05月 16日
ウーナ40 天山8 岩蔵天山神社 七歳の童女に神が懸かった
ウーナ40
天山8 岩蔵天山神社
七歳の童女に神が懸かった
さて、今日は岩蔵の天山神社の紹介をしよう。
天山の麓にある三つの下宮社のうち、一番東に鎮座している宮だ。
九州横断自動車道で長崎に向かい、小城パーキングに新たに設置されたスマートICから下りていくと、すぐに三叉路に当たる。右折して祇園川沿いに遡っていくと、まもなく天山酒造が右手に見える。
その正面が岩蔵天山神社だ。ここにも「天山橋」があった。
社前のようす。
参道の途中に池があって橋が架かっていた。
橋は一枚岩でとても珍しい。古来のものが残されているのだろうか。
肥前鳥居。
祭神は『小城郡誌』によると、
多紀津毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱となっている。
宗像三女神だ。
社殿は黒を基調にした色で、女神の宮にしては珍しい色に思えた。
拝殿には鍋島家の杏葉紋(ぎょうようもん)が掲げられていた。
神殿は赤と水の色。
社殿の向こうに三角形の山が見える。
愛宕山らしい。真後ろではなく、微妙にずれているが、この山を見ていると思われた。
社殿は東に向いているので、ここで手を合わせると厳密ではないが、晴気(はるけ)や厳木(きゅうらぎ)の天山神社方面にも手を合わせることになる。
『小城郡誌』を口語訳しよう。
<当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。
当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので、伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。
その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。
その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。
「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。
その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。
この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向(ようごう)の松」と呼ぶようになった。
この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>
当社は、文武天皇の大宝2年(702)に口宣によって建立された。
「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだ。
だから、天皇の命令で造られたことになる。
文武天皇はこの時、16歳。そばには祖母の持統太上天皇が控えていた。
晴気(はるけ)の里は持統天皇が授けたものだから、文武の口宣は実質、持統天皇の命によるものと考えてよいだろう。
概要は、北山に光が飛んで来て、松の梢で光輝いた。
その村の七歳の童女に神懸かりがあり、国家鎮護を約束すると、翌日松のそばに泉が湧き出した。
そこで九郎康弘がやってきて村人を集めて社を造ったということだ。
この九郎康弘のことは広瀬天山神社の方では「安弘」と記され、藤原房前の生前の名ということが明らかにされている。
だから、小城と朝廷の連絡が直結していた理由がここにあることが分かった。
その3年後、この「光」が安芸宮島から飛来したもので、「北山」が「天山」となったことが『小城郡誌』の続きに【参考】として書かれている。
<【参考】
それから3年後、慶雲2年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。
「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。
里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。
最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。
同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>
文脈からは、下宮が建った所は神霊の影向が見えた「はるか南の松林」とあることから、この岩蔵がその地点という解釈でいいのだろうか。
広瀬天山神社の縁起の方には、
701年に白雲が天山から本山、広瀬、岩蔵の上に降りるのを見て、天御中主命を勧請して三つの下宮としたように書かれている。
光の飛来が見えたのは翌702年のことで、705年に宮島から来た人の話で光が市杵島姫と判明する。
安芸の宮島すなわち厳島神社(広島)は593年佐伯鞍職が市杵島姫を祀ったことから始まっている。当時、市杵島姫単独か、三女神合祀かは不明だ。
縁起からは下宮を一直線にするための積極的な理由は見当たらなかった。
境内の右手から後ろの天山山系を撮ってみた。
天山そのものが見えているかは分からないが、光がここから見えたということになるのだろう。
20180516
小城市岩蔵2348
異世界小説