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ウーナ52 ヤマトタケル2 須賀神社



ウーナ52

ヤマトタケル2 

須賀神社
 

小城町(おぎ)の松尾という字に丘陵があり、須賀神社が鎮座している。







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ざっと70mほどの標高のようだ。








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そこに取り付けられた石段はまっすぐだ。
いつも誰かが登って参拝している。


景色を眺め眺めしながら、登ればそれほど苦労はしない。









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頂上の社殿は参拝する場所がやっととれる程度に狭い敷地に建っていた。

祭神は健速須佐之男大神、櫛稲田姫大神の二神だ。

かつては祇園社と呼ばれていて、桓武天皇延暦22年(803)の創建と言われている。

803年といえば、天山下宮社三社創建からちょうど百年後に当たる。










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拝殿の右手すぐに稲荷社があった。









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左手には天満天神社。

左右に鉄の民の神が祀られていた。
しかも、社殿の後ろは絶壁だ。







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製鉄には最適の地形だった。

こここそ、風土記に描かれた土蜘蛛の砦だったのではないか。
思いはますます募る。










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参拝を済ませて祇園川のほとりで数人で話し合った。
ここに土蜘蛛が居たとすると、ヤマトタケルはどこから攻めたのか。

景行天皇は軍勢を連れて大仰に正面から宣戦布告したが、
土蜘蛛からみたら、「いったい誰がわめいている」、
その程度の認識だったのではないか。

正面は見晴らしが良い。

だから、ヤマトタケルは夜陰に紛れて川を越えて、
裏から登って土蜘蛛の長を一撃したのではないか。


ちょうど、直前に佐賀市で熊襲タケルを襲撃したように。
ここまでは武内宿禰が道案内したに違いない。

あと20キロ西に行けば拠点の武雄(たけお)に着く。
そんな結論だった。

丘陵はいかにも高地性弥生集落が営まれたような地形だ。
しかし、中世時代に山城を造った時、痕跡は失われただろう。
そんな事も考えた。




ここは鎌倉幕府の命により、千葉氏が下向し、八坂神社の分霊を勧請したのだという。

千葉氏。
なんと、その千葉氏が当時、「晴気に居住」していたと看板に書かれていた。

思いがけず「晴気」(はるけ)の地名が出て来た。
天山神社を歴史カフェでやっていなかったら、気づかなかっただろう。

もともと持統天皇が晴気の価値を知っていたのだ。

飛鳥時代から戦国時代までその価値が知られていた。

千葉氏については、真鍋が記録している。
製鉄に関わる一族だ。
真鍋の本を調べよう。

(つづく)

20180617




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by lunabura | 2018-06-17 20:12 | 「ウーナ」 | Comments(0)
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