2018年 09月 13日
阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク 継体天皇の石棺は熊本製なのか?
阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク
継体天皇の石棺は熊本製なのか?
2018年9月20日(木)のバスハイクの案内を忘れていました (^^)/
近畿地方の古墳から、阿蘇産のピンク石で造られた石棺がいくつも出土しています。
熊本の宇土(うと)にはその石の採掘現場が残り、実験考古学によって宇土から近畿まで、船での運搬が再現されました。
この宇土半島には卑弥呼より百年後の女性が埋葬された向野田古墳、伊勢物語や枕草子に出てくる「たはれ島」、景行天皇ゆかりの御輿来海岸などがあります。多彩な史跡を訪ねて宇土半島をまわりましょう。
天神8:30―宇土市立図書館―向野田古墳-馬門採石場跡―宇土マリーナおこしき館―御輿来海岸―たはれ島遠望(住吉神社)―天神
今回は宇土市文化財課の方が同行してくださることになり、現地で説明していただけるというスペシャルなものになります。
「歴史と自然をまもる会」のHPに載せたコースの順番を少し変更しましたよ。
向野田古墳は前方後円墳で、86メートルもある巨大なものですが、埋葬されていたのは40代前後の女性でした。
卑弥呼より100年後の人ですが、宇土には女王的なシャーマンが統治していたとも解釈できますね。その古墳と出土品を見学します。
それから阿蘇ピンク石の採掘現場に行きます。
※
阿蘇ピンク石の石棺が重要なのは、近畿から数多く出土しているからなのです。
特に継体天皇の墓ではないかと言われる今城塚(いましろづか)古墳にピンク石の石棺があったのは大変な事です。
三つの石棺の内の一つだそうです。
今城塚古墳がさらに重要なのは八女の岩戸山古墳とそっくりな点です。
岩戸山古墳は別区という広場が後円部に付いているのが特徴ですが、この今城塚古墳にもその別区が付いているうえに、設計図が同一なのです。
ただ大きさは今城塚古墳の方がずっと巨大です。
この古墳が継体天皇の墓というのは推測に過ぎません。
戦った者同士の墓が同じ設計だというのは多くの謎を提供します。
で、るな的な考察では、今城塚古墳を継体天皇の墓とする必然性はないのではないかという、また学者の方にクレームをいただきそうな説です。
磐井の乱は「磐井VS継体」と捉えられていますが、実際はちょっと違うのです。
「古事記」では継体天皇は磐井の乱の前に崩御しているのです。
すると、磐井は誰と戦った?
となりますね。
「日本書紀」では継体天皇は磐井の乱の四年後に崩御していることになっていますが、編者は「実際は分からないので百済の書物から類推したから、後の世の人が検討してね」と書いています。
きっと権力者から無理強いされた編者が良心を記したのではないかと思うのです。だって崩御した年が82歳。磐井と戦った年は78歳。ちょっと無理ですよね。
ちなみに「古事記」では崩御した年齢は43歳です。
古事記と日本書紀の差がこれほど大きいのはどちらかが嘘をついているからです。
史料の問題はこれくらいにしておいて、今城塚古墳に話を戻しますが、
もし継体天皇が磐井と戦ったとしても、どうして阿蘇産の九州デザインの石棺に眠りますか?
近くの二上山なんかに良い石材はあるのに。
また、どうして磐井と同じ設計の墓に入りたいと思いますか?
今城塚古墳=継体天皇の墓
では、こんな疑問に答えられません。
継体天皇は磐井と戦う前に死んだ可能性がある。
阿蘇ピンク石に眠りたかったのはホントに継体天皇なのか。
こんな事を考えながら、定説に疑問だらけな私はもう一度現地を見て参りたいと思います。
1 近畿の王たちはピンク石棺を熊本に発注して九州スタイルに彫ってもらって、近畿の王たちや熊本の王たちに下賜した。
2 九州の王たちが近畿に進出した時、故郷の象徴のピンク石棺を持ち込んだ。
皆さんはどう考えますか?
宇土から近畿へ船での輸送の実験が行われたので、その現場のようすを皆さんと歩いて経験してきます。
なお、このピンク石は阿蘇山の9万年前の火砕流で出来たものだそうです。
同じ火砕流が那珂川町では裂田溝(さくたのうなで)の横の轟の丘を形成しました。
奴国の丘では石棺の材料になったり、風化してサラサラの砂になっていましたね。
名島神社では帆柱石になっていました。
神功皇后の旅では上のように、火砕流のいろんな姿を見てきました。
宇土マリーナでは復元された石棺や船を見学して、景行天皇が眺めた御輿来海岸、清少納言が記述した「たはれ島」を眺めながら帰ります。
今日現在、座席が数名分残っているそうです。
一般からも参加できます。4000円です。食事は道の駅にて、各自自由に。
申し込みは「歴史と自然をまもる会」に電話でどうぞ。
092-408-7140
20180913
私の生活圏になるんですが、熱田神宮のすぐ隣にある「断夫山(だんぷやま)古墳」(愛知県最大)と、春日井市にある「味美(あじよし)二子山古墳」も、今城塚古墳の相似墳みたいです。
調べてみたら、群馬県藤岡市にある「七輿山(ななこしやま)古墳」もそのようです。
新たな謎解きでしょうか^^
断夫山古墳の断夫というのは、夫を断つという意味だそうです。
ヤマトタケルを失った宮簣媛(ミヤズヒメ)が、独身を通したという意味のようです。
熱田神宮は、今もこの古墳をミヤズヒメの御陵として祀っているのです(御陵墓祭)。
しかしながら、5世紀末から6世紀初頭の築造とされますので、年代が合いません。
ですので、当時の尾張氏の首長「尾張連草香(くさか)」の墳墓と想定されているようです。
この方の娘さんが継体天皇の妃となった「目子媛(めこひめ)」だそうですので、継体天皇との関連が考えられているようです。
同じ謎になります。断夫山古墳はなぜ岩戸山古墳と同じ設計なんだろう?
チェリーさん ご無沙汰しております。
今城塚古墳(摂津)の相似墳には、断夫山古墳(尾張)、七輿山古墳(上野毛)、岩戸山古墳(築後)、五ヶ庄二子塚古墳(山城)、西山塚古墳(大和)、味美二子山古墳(尾張)などがあって、墳丘長が190mの今城塚古墳を10とした場合、それぞれ8、8、7、6、6、5と見事な序列関係になっています。しかも各古墳の被葬者は継体天皇の后や支持勢力の可能性が高いとされています。
これらから学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造されたと見られています。そこから導き出せる結論(あくまである一面から見ただけの結論)は、磐井の乱以前の継体と磐井の関係は非常に良好だった、となります。これでチェリーさんの疑問の答えになるでしょうか?
また両者の関係が良好なら、今城塚古墳の石棺に馬門ピンク石が使われていてもおかしくはありませんね。まあ、ピンク石は継体天皇よりかなり以前から関西の各古墳で使用されていますので、その流れで今城塚古墳でも使用されたと考えてもいいとは思います。あ、それから今城塚古墳の石棺石材としては、兵庫県高砂産の竜山石、馬門ピンク石、二上山白石の3種類が使われています。
すごくありがたいです。
嬉しかったので、
https://lunabura.exblog.jp/29745919/
の方で、記事を掲載させていただきました。よろしくお願いします。
コースを参考にして回ってみてください^^
酔石亭主さん、ありがとうございます!
こちらこそ御無沙汰してしまいました。お元気そうで何よりです!
またMURYさんのサイトにも少しずつお邪魔しようと思ってるんですよ!
継体天皇と尾張氏のラインがありますので、また、まとめますね!









