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岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 磐井VS継体?配布したのはどっち?



岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 

磐井VS継体?

配布したのはどっち?




9月20日に行く宇土半島のピンク石の石棺について、岩戸山古墳と今城山古墳の相似性について書いたところ、チェリーさんと酔石亭主さんが詳しい内容を知らせてくださいました。

コメント欄だけではもったいないので、こちらに載せておきたいと思います。

by チェリー
lunaさん、こんばんは。
私の生活圏になるんですが、熱田神宮のすぐ隣にある「断夫山(だんぷやま)古墳」(愛知県最大)と、春日井市にある「味美(あじよし)二子山古墳」も、今城塚古墳の相似墳みたいです。
調べてみたら、群馬県藤岡市にある「七輿山(ななこしやま)古墳」もそのようです。

by luna
けっこうあるんですね。
新たな謎解きでしょうか^^

by チェリー
他にもあるのでしょうか?私が知っているのはこの三つだけです。

断夫山古墳の断夫というのは、夫を断つという意味だそうです。
ヤマトタケルを失った宮簣媛(ミヤズヒメ)が、独身を通したという意味のようです。
熱田神宮は、今もこの古墳をミヤズヒメの御陵として祀っているのです(御陵墓祭)。

しかしながら、5世紀末から6世紀初頭の築造とされますので、年代が合いません。
ですので、当時の尾張氏の首長「尾張連草香(くさか)」の墳墓と想定されているようです。

この方の娘さんが継体天皇の妃となった「目子媛(めこひめ)」だそうですので、継体天皇との関連が考えられているようです。

同じ謎になります。断夫山古墳はなぜ岩戸山古墳と同じ設計なんだろう?

るな
このコメントを読んで、地元にはそれぞれ内容の濃い伝承が伝わっているのに驚きました。

継体天皇の妃が愛知県とは全く知りませんで、少し調べてみたいなと思いました。
実は纏向遺跡を40年掘った方が、纏向からは邪馬台国らしきものは出なかったと話されました。

邪馬台国なら、中国の物が一つでも出るはずなのに、全く出なかったそうです。

そして、出土したものの特徴の一つは福岡系の羽口、そして敢えて言うなら、遺物の傾向としては三重や愛知を見ていると言われたのです。

時代も、場所も違う話ですが、愛知への視線が気になりました。

岩戸山古墳と相似性の古墳についてはネットでも論文を見ることができますが、
チェリーさんの質問に答えるには少々本格的に調べないと無理だなあと思っていたら、酔石亭主さんが助け舟を出してくれました。


Commented by 酔石亭主 at 2018-09-15 15:55 x

lunaさん はじめまして。横から失礼します。
チェリーさん ご無沙汰しております。

今城塚古墳(摂津)の相似墳には、断夫山古墳(尾張)、七輿山古墳(上野毛)、岩戸山古墳(築後)、五ヶ庄二子塚古墳(山城)、西山塚古墳(大和)、味美二子山古墳(尾張)などがあって、墳丘長が190mの今城塚古墳を10とした場合、それぞれ8、8、7、6、6、5と見事な序列関係になっています。しかも各古墳の被葬者は継体天皇の后や支持勢力の可能性が高いとされています。

これらから学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造されたと見られています。そこから導き出せる結論(あくまである一面から見ただけの結論)は、磐井の乱以前の継体と磐井の関係は非常に良好だった、となります。これでチェリーさんの疑問の答えになるでしょうか?

また両者の関係が良好なら、今城塚古墳の石棺に馬門ピンク石が使われていてもおかしくはありませんね。まあ、ピンク石は継体天皇よりかなり以前から関西の各古墳で使用されていますので、その流れで今城塚古墳でも使用されたと考えてもいいとは思います。あ、それから今城塚古墳の石棺石材としては、兵庫県高砂産の竜山石、馬門ピンク石、二上山白石の3種類が使われています。

るな
酔石亭主さんがすごく分かりやすくまとめてあったので、勉強になりました。
ありがとうございます♪




ところで、「学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造された」とあるように、近畿の朝廷が「配布する」という解釈が学会で見られます。


ところが、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種である」と書かれ、「日本は古くは小国だった」とあります。のちに「倭国の地を併合した」とも。
倭国は冬でも緑なす国と書かれていましたね。
阿蘇山の影響がある地域です。

中国正史から見ると、九州にあった倭王朝が設計図を「配布」したという解釈が成り立ちます。

最近思うのは、
磐井の時代もそうですが、邪馬台国論争では、魏志倭人伝だけでなく、『隋書』や『旧唐書』を読んでから論を立てるのが肝要かと。


以下はいただいたコメントの元記事です。







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by lunabura | 2018-09-16 17:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(10)
Commented by 酔石亭主 at 2018-09-17 20:48 x
lunaさん チェリーさん

コメントを記事に昇格させて頂いたとは光栄です。有難うございました。実は今城塚古墳からそう遠くない場所に歴史探索で行ってみたいと思っていて、時間があれば古墳にも行ける可能性もあり、ネットであれこれ資料・情報を拾っていました。それをほとんどそのまま使える状態だったのでコメントさせて頂いた次第です。そんな内情ですが、お役に立てれば幸いです。

それと、るなさんにはもう一つお礼を言わなければなりません。以前に、尾張と遠賀川流域の相似性が不思議でならず、それをブログに書いています。これをチェリーさんがるなさんのコメント欄で取り上げ、るなさんも私の記事を読まれたはずです。それから随分時間も経ちましたが、もやもや気分が収まらず、これはもう遠賀川流域に行くしかないと思い立ました。問題は、北九州に全く土地鑑がない点です。そこでるなさんのブログを参照し、どこにどんな神社や伝承があるのか把握した上で行ったので、かなり効率的に回ることができました。遅きに失していますが、本当に有難うございました。

チェリーさん:継体天皇と尾張氏の関係を検討されるとのこと、面白そうですね。チェリーさんのブログにはコメント欄がないようですが、あればいいのですけど…。

今城塚古墳のマスタープランが九州の倭王朝から配布されたとする、るなさん説に関しては、少し長くなるかもしれないので次のコメントで書きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-09-17 21:09 x
lunaさん

信頼できる史料がほとんどない古代史の議論をするには、言葉の定義をする必要があり、また同じ物差しで意見交換する必要がある、と言うのが私の持論です。そうしないとお互い言いっ放しに終わり、精神衛生上よくないし建設的な議論にはなりません。例えば、「旧唐書」に書かれた倭国とはどこで、日本国はどこなのか、同書には説明はありません。そこで倭国は北九州として、日本国は例えば出雲かもしれないし、吉備、丹波かもしれませんが、一応大和を中心とした近畿地方と定義しておきます。

次に日本国は古くは小国とある「古く」はいつ頃を指すのでしょう?倭や倭人の記事が中国の文献で出始めた紀元前150年頃、或いは金印の紀元57年頃でしょうか?決めかねるので、紀元前後頃と一応定義しておきます。これに賛同頂いたとして、るなさん説の場合、例えば紀元前後頃の日本国(近畿地方)が小国だったので、それから500年後の継体天皇の時代も倭王朝から古墳のマスタープランが近畿地方に配布された、となります。これは例えば、1500年頃の東京の範囲が多分人口10万人以下の小さなものだったから、2000年代における東京の都市計画もよそから配布されたものだと言っているに等しく、議論として成り立たないのではないでしょうか?

そこで物差しです。ある地域の勢力の大小を測る物差しとして古墳の規模を考えます。例えば、紀元前後の近畿地方は小勢力だったとしても、200年代終わり頃から300年代にかけては巨大古墳が続々と築造されているので、この頃は日本全体の中で最大勢力だったと理解されます。超大型古墳の築造には大きな動員力と財政力が必要なので、それが勢力を測る物差しになる訳です。継体天皇の時代も同様に考えれば、最大勢力は近畿で、次が尾張、次が群馬、その次が北九州となります。一般的には大きな勢力から小さな勢力に配布されると考えられるので、今城塚古墳のマスタープランが岩戸山古墳に配布された可能性が高いと判断した訳です。次に続きます。

Commented by 酔石亭主 at 2018-09-17 21:11 x
lunaさん

続きです。

もちろん古墳の規模は一つの物差しに過ぎませんし、例えば岩戸山古墳が今城塚古墳より前に築造されていたら、この物差しは揺らぎます。そこで次の物差しを当ててみます。それが古墳編年です。これも絶対的なものではありませんが、一定の物差しにはなり得ます。古墳編年で見ると岩戸山古墳は9期で、それ以外はほとんどが8期で、8期から9期が一件ありました。編年から見ても今城塚古墳から岩戸山古墳への配布の可能性が高そうです。

次の物差しは配布そのものです。岩戸山古墳を一旦外して考えると、今城塚古墳のマスタープランが継体の妃や大和或いは他地域の臣下、支援豪族などに配布されていると理解されます。ここでの配布は上から下に配られると言う意味で、子や孫は継承ですから配布にはならず除外されます。書き洩らしましたが、磐井と同じ釜の飯を食ったとされる近江毛野の林之腰古墳も相似墳で比率は5でした。

そこで、岩戸山古墳のマスタープランが近畿やその他に配布されたとする場合、少なくとも磐井の后、臣下、支援豪族などの古墳に相似墳が存在していなければなりません。九州の古墳に関する知識・理解はほとんどありませんが、4、5件の相似墳があるなら、配布と言う物差しにおいて岩戸山古墳と今城塚古墳はほぼ同等になります。この点はいかがでしょう?

まあ、このように言葉を定義し物差しで測る作業を積み重ねれば、多少なりとも正解に近くなるのではないでしょうか?邪馬台国論争も、両陣営間でどちらの王朝が偉いみたいなコップの中の論争になっているのはいただけません。バイアスをかけず、できるだけ客観性のある物差しを幾つか使えば答えが見えてくると思います。一度議論してみるのもいいかもしれませんね。以上、長くなって申し訳ありませんが、別の見方や物差しなどがありましたらお教えください。
Commented by lunabura at 2018-09-22 20:20
返事が遅くなりました。ようやく読める体制になりました。
マスタープランは一番古い古墳から配布されたと考えるのがよいかもしれませんね。
大きい古墳が多いところが小さい古墳群の方に配布したかどうか、例を挙げるなら東京などよりも、イギリスとアメリカの関係をイメージしていますよ。
勢力はあっても、権力があるということにはならないと思います。
「古い」はいつか、は誰も規定できません。
前方後円墳が首長墓で円墳などがその下の人たちという説が横行していますが、その根拠をある方が尋ねると「これまで偉い先生方が調べてこられたので」という説明をされるのを聞きました。これでは一般人には分からないのです。


配布の件は何が出ても新聞ではヤマト政権から下賜されたという論調だけが取り上げられるので、納得していない気持を述べたものです。
いちいち説明するほどのこともありません。
これは論文ではなく、公開日記だからです。
論文を書くとすればきちんと論証しますがね。
Commented by 酔石亭主 at 2018-09-26 20:02 x
lunaさん

新聞記事が納得できないから、九州にあった倭王朝が設計図を「配布」したという解釈が成り立つと書いただけで、説明するほどのことではないとおっしゃられるのですか?それが真意だとするなら、正直がっかりです。今の個別の議論で新聞記事など何も関係ないし、またたとえ公開日記であっても、身辺雑記や異世界小説ならともかく、古代史に関係する部分は一定の論証が常に必要だと思いますよ。特にlunaさんの場合本も出版されており、オピニオンリーダー的な立場にあるわけですから、一般人の誤解を招くような記述は避けるべきだと思います。

ただ、中途半端な知識しかない記者が推測を事実のように誘導して新聞記事を書くのは私も大きな問題だとは思っています。何が出てもヤマト政権から下賜されたという記事は知りませんが、例えば新聞が犬山市の東之宮古墳から出土した三角縁神獣鏡(のレプリカ)について、卑弥呼の鏡は魔鏡だなどと書くから誤解を招いてしまいます。三角縁神獣鏡など500枚以上出土しているので、卑弥呼の鏡(魏から下賜された100枚の銅鏡)と関係づけるのは誤りです。

比較的最近では西日本新聞の「熱田神社 草薙の剣を祭った元宮か」の記事も笑ってしまいました。筆者は自分で1185年に尾張国熱田大明神を勧請と書きながら、最後は「鞍手町の熱田神社は、草薙の剣をご神体とする名古屋の熱田神宮の元宮だったかもしれない。」と締めくくっているのですから…。なぜ1185年の勧請になるのかは理由があります。源平合戦の際熱田神宮の宮司に養育された源範頼が1185年に北九州市八幡西区本城に来て、戦勝を祈願するため熱田神宮から剣大神を勧請したのが八剣神社としての始まりで、それが遠賀川流域の各地に分祀されているからです。本城八剣神社の由緒には「八剱神社は、本城を本社として付近周辺合わせて十数社をかぞへる。」とあり、史料を読むと遠賀川流域の各八剣神社に関して熱田神宮との関係を示す内容が幾つか見られることがその証明になります。

続きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-09-26 20:03 x
従って、新北の熱田神社もこの流れに乗っていると考えられます。でもなぜ新北の熱田神社だけ八剣ではなく、熱田の名前になっているのか?全くの推測ですが、ヒギハヤヒに随行した新北物部が途中で別行動をとり尾張に行ったからで、結果「新北」が尾張の「熱田」の地名由来になり、それを当時の宮司が知っていたからではないかと…。まあ、これらの例のように新聞記事はいい加減ですから(ただ、西日本新聞の途中の記事内容は結構よく書けている)、気になるならビシッと反論記事を書かれたらいいのではと思います。
配布はどちらからかについて、時間はかかっても結構ですので、きちんと論証した論文を期待しています。

Commented by lunabura at 2018-09-30 10:22
本城八剣神社も新北の熱田神社も日本武尊を歓待した物部が居た所です。彼らはさらに古くから居たことになります。

八剣の社号は岡垣の高倉神社が始まりで、天智期に熱田神宮から新羅僧道行が草薙剣を盗み出した事件に関わります。鞍手古物神社には草薙剣が飛来した伝承があり、その保管先が高倉神社。そこで七つのコピーを作り、合わせて八つの剣を保管したことから八剣神社と号しました。お調べください。
Commented by 酔石亭主 at 2018-10-01 21:13 x
lunaさん

各八剣神社にそれぞれの前史があることは知っていますよ。だから、「八剣神社としての始まり」と書いているのです。熱田神社に関しても、先々代が書かれた系図と様々な由緒を貴重な原文で拝見し、写真撮影までさせていただいているので、るなさんより詳しいかもしれません。

「八剣の社号は岡垣の高倉神社が始まりで、…中略…お調べください。」とありますが、私の方こそよくお調べくださいと言いたくなります。るなさん自身は何をお調べになったのですか?多分岡垣町誌を参照されたのでしょうが、内容に何の疑問も持たず鵜呑みにされたとしたら驚きです。岡垣町誌は二次史料に過ぎず、元史料を要約したもので、要約の際にとんでもないミスを犯しています。

元史料には熱田神宮から草薙剣を盗んだ道行(この史料では道堯)が近江に逃げたこと、博多で取り戻した草薙剣を高倉神社にしばし保管したこと、勅使が来てこれを守護し、また本の宮(熱田神宮)に収めたこと、再び盗難が起きないよう天皇の命で七振りのコピーを造りそれを収める別殿を建てたのが八剣宮であると書かれており、最後に、しばらく当地にかの剣を保管したから熱田にならって俗説には高倉神社をも八剣宮と申し奉るとあります。

要するに、七振りのコピーを造ったのは熱田神宮の別宮となる八剣宮創建に関わる話であり、高倉神社は、それらを収めた熱田神宮別宮の八剣宮にならって俗説では八剣宮とも称しただけで、高倉神社にて七振りのコピーを作り、合わせて八つの剣を別殿で保管してなどいないのです。これで岡垣町誌の間違いをご理解いただけましたか?修正に必要なら地元の図書館で元史料に当たってお調べください。

私は高倉神社の宮司さんに草薙剣をしばらく保管し、八剣宮とも称したと史料にある点をお聞きしましたが、宮司さんは言下に否定し、そんな話は何もない、大変迷惑なことだと言われました。つまり宮司さんは高倉神社において草薙剣を保管したことも八剣宮と称したこともないとしておられるのです。もちろん宮司さんの見解は主観的な断定かもしれず、実際に八剣宮と称していた可能性も多少は残ります。その場合熱田神宮別宮・八剣宮の創建は708年ですから、そのすぐ後に熱田神宮にならって高倉神社を八剣宮と称したのであれば、るなさんの主張のように1185年よりはずっと古くなります。

続きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-10-01 21:15 x
そこで問題は、高倉神社に一時保管されていた(とされる)草薙剣です。私は道行の盗難事件に関して、可能な限り史料をチェックし、道行の逃げた経路もほとんど訪問しました。その結果盗難事件は朝廷と尾張氏(及び部分的に物部氏)の合作によるねつ造だと考えるしかなくなりました。詳しく書くと物凄く長くなるので要点を少しだけ書きます。まず犯人の新羅僧・道行ですが盗難事件が起きた668年と同年に彼は知多市において天智天皇勅願所となる法海寺を創建し、天皇の病気平癒迄行っています。日本国最高の宝を盗んだ大罪人にそんなことが許される訳ありませんね。これで道行は犯人でないと確認されます。

また道行は博多に至るまで各地を転々と逃げていますが、どの場所も日本武尊自身や妃、母の関係地でした。新羅の僧がなぜ日本武尊の関係地ばかりを目指して逃げるのか、これは尾張氏によるねつ造の証拠の一部と考えられます。なぜねつ造したかはうんと長くなるので書きませんが、高倉神社の宮司さんがおっしゃるように、北九州に草薙剣が来たことはなかったのです。ねつ造話を誰が北九州に持ち込んだのかも、ほぼ当たりが付いていますよ。

上記は私の個人的見解なのでさて置いても、高倉神社を八剣宮とも言うのは俗説に過ぎず、神社側も認めていないのですから、八剣の社号は源範頼が1185年に本城で八剣神社を創建したのに始まるとご納得頂けますよね。

道行の草薙剣盗難事件は広域(ねつ造)事件であり尾張から北九州までを俯瞰的に且つ地道に全部チェックしないと真相には迫れません。北九州の狭い窓からだけ見るとあさっての方向に行ってしまう恐れがあるのです。るなさんの場合公開日記だから構わないとされるのでしょうが、昨日今日の歴女とは違うのですから、読者の誤解を招かないためにも、やはりブログに古代史を書かれる際はきちんと最後まで調べ尽くし、そのうえで公開されるようお勧めします。
Commented by lunabura at 2018-10-05 20:47
酔石亭主さん
いろいろとありがとうございました。
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