2018年 09月 21日
ワダツミ2 アジャーシタ 玉依
アジャーシタ 玉依
2017年11月11日。
菊如と崋山と白皇そして私。四人で糸島の二見ケ浦に向かった。
晴天だ。
美しい二見ケ浦。
命を生み出す海。
夫婦岩と鵜。
二見ケ浦で過ごしたあと、再び夕方にはここに戻って来る。
その時、菊如と崋山は何かを受け取ることになっていた。
それまでは何処かで時間をつぶさねばならない。
菊如が「るなさん、何処に行ったらいい?」
と尋ねた。やはり返事は同じ。
「平原遺跡!豊玉姫なら志登神社!」と答えた。
菊如は「もう一度、桜谷の若宮神社に行きたい」と言った。
そこは菊如にとって謎解きの始まりの宮だった。
これで話は決まり。
まずは一番近い「若宮神社」に行くことにしたが、道を間違えてしまい、着いたのは船越の「綿積神社」だった。
今思えば、そこは始まりであり、終わりだった。
間違えて行くことにも意味があったのだ。
綿積神社の前景。
社殿。
掲示板があった。
<綿積神社
鎮座地 糸島郡志摩町大字船越170番地
祭神 豊玉彦命、鵜茅葺不合命、豊玉姫命
例祭日 4月29日、7月15日
由緒 当社は古来齋浜に御座ありたるを秀吉の西征に際し神田悉く没収に相成り、神社も破壊に及びたれば齋大明神を現在の龍王崎に遷し今日迄祭祀せるものなり、
昔より牛馬安産の神として遠近の信仰厚きは神功皇后渡航の砌武内宿禰をして牛馬安産の祈願をなされた因縁に依るものと伝えられる。(略)>
豊玉姫が父の豊玉彦、そして子のウガヤフキアエズと共に祀られていた。
三世代の安曇の神々だが、この組み合わせはとても珍しい。
社号も元は「龍王宮」と呼んだという。
現在地は引津湾に面した船越の龍王崎に鎮座するが、もともと「齋(いつき)浜」という所に鎮座していたものを現在地に遷したものだという。
牛馬安全の神として信仰されたゆえんは、神功皇后の三韓討伐の時に武内宿禰が牛馬の安全を祈願したからという。
社前の引津湾。
ここから遣新羅使を乗せた船が出港した。齋浜の場所は分からないが、遠く海を越えて出港する船人たちはこの海の神々に手を合わせて祈ったことだろう。
崋山は豊玉姫を探しているらしい。しきりに裏手の崖の上を見ていた。
私はあちこち写真を撮っていたが、「るなさん、るなさん」と菊如に呼ばれた。
見ると、崋山が祠の前でしゃがみこんでいた。
そして、小さな声で何か話していた。
私は急いでノートを取り出して、それを書き止めた。
「姫は山の上で待っておられます。豊玉姫の分御魂(わけみたま)。
わしゃ、このサンゴの中に入っている。
底深く、竜宮城が我らの住む地。
しかし、門が閉められた。閉められると、その地では生きていけん。
再び門が開き、行き来ができるようになった。ワダツミの者たちも行き来できるようになった。
見よ。この瀬。われらはこの地に来れた。
わしの名はアジャーシタ。
昔、玉依(たまより)として働いておった。代々、姫たちの子を育てる役目が玉依じゃ。
神の力が宿りたる子たちを育て、学ばせ、人々のために働けるように育てるのが玉依の務め。
何人もの人が神を宿してこの地を治め、その御魂を持った者たちが集まり、この国を建て直す。
わしゃ、812年前に閉じ込められた。
この国は島国、海とのつながりが欠かせぬ。
またこの地の門が開いて、やっとこれで海に帰れる。亀が迎えに来ている」
そう言って、アジャーシタは去っていった。
見ると、崋山の前には30センチほどの高さのサンゴが祀られていた。
アジャーシタはこのサンゴに812年前から入っていたという。
この話は2017年の事だったので、812年前は西暦1205年のことになる。この年、何が起こっただろうか。
1205年は元久2年。天皇は土御門天皇。鎌倉幕府の征夷大将軍は第3代将軍・源実朝である。執権は初代・北条時政から第2代執権に北条義時に変わった。
あまりピンとこない。
それよりも、玉依というのは役職名で乳母的な存在だったという話が新しかった。
海の底の竜宮城には、ワダツミの者たちが住んでいて、姫の子は神を宿した人として教育され、陸の地を治めたということのようだ。人間とワダツミの者は違う種族というのか。分からない。
アジャーシタが去ったあとも崋山は崖の上を見やっていた。
そこには石の台と石碑があるように見えたが、切り立った崖はコンクリートで覆われて道が無い。岬の突端のようだ。
私たちは岬の反対側から登る事にした。
20180921
異世界小説