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ひもろぎ逍遥

六ケ岳崎門山2 三女神の降臨と宗像の語源



六ケ岳崎門山2 

三女神の降臨と宗像の語源





昨日の崎門山から見える山について、現地では
「宗像の山だろう」とか、
「宗像なら一番高いのは孔大寺(こだいじ)山」
とか、話し合ったが、曖昧なことは書けないので、チェリーの応援を頼んだところ、早速画像を送ってくれた。










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で、孔大寺山で正解だった。左のピークは城山だ。










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城山、金山、湯川山、孔大寺山の四つで「四塚(よつづか)」という。
宗像側からは四塚は綺麗に並んで見えるが、ここからは孔大寺山をピークとした一塊に見える。



ここに来て、ようやく『福岡県神社誌』に書かれた六嶽神社の縁起を理解することが出来た。

〈六嶽を上宮としていて、由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。

成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。

これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、今わずかに石殿が一宇あるだけである。〉
 
           影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
             
ここが宗像三女神が降臨した所であり、あのヤマトタケルの時代、長田彦(小狭田彦)は香月姓を賜ると共に、この室木を褒賞としてもらった。

その長田彦にある日、神勅が降りたため、崎門山に登ってひもろぎを営んだ。そして社殿が建ったのである。

しかし、享禄年間(1528~1531)すなわち戦国時代に火災に遭い、石祠だけになった。

ご神体は今の下宮に移されたという。


〈 『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って崎門山にいます時から、
「青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
「八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
「八咫(やた)の鏡」を辺宮の表に置いて、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。

これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』 〉


『宗像宮縁起』には三女神が崎門山に天下りしたことが書かれていて、この崎門山にいます時に、三つの宝を表(しるし)にして神体として三つの宮に納めたという。

ここから沖ノ島も見えるのだろうか。

「宗像」の語源として、今は胸肩につけた入れ墨説が流布しているが、かつては身形(みのかた)すなわち「三つのご神体」を指すと思われていたようだ。

ご神体は、青い蕤玉、(勾玉?)、紫の玉、八咫鏡と、姫神らしい構成だ。

この崎門山にあったご神体の形は書かれていない。
下宮に降ろされたご神体はどんな形なのか、今も伝わっているのか。


六嶽神社は、宇佐から巫女が来たあと祭祀者がいったん断絶している。
隼人の乱の頃だ。
この時、ご神体は下宮に留まることが出来ただろうか。




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Commented by チェリー at 2018-11-19 22:42 x
lunaさん、画像を掲載していただき、ありがとうございます。
六嶽神社上宮から沖ノ島を直接見ることはできません。ちょうど金山の向こう側になります。
中宮があったんですね?これも謎ですねぇ…
Commented by lunabura at 2018-11-19 23:13
沖ノ島、調べてくださってありがとうございます。

中宮は大島と解釈しています。
何故なら辺宮が辺津宮(田島)と考えられるからです。
それで、奥宮は沖ノ島かと考えています。
でも、チェリーさんのご指摘も考えてみます。

三女神はこののち、福津の神興神社の方に出てくるので、沖ノ島は無理かなあと思っていたのです。
今度は孔大寺山が謎めいてきますね。
でも、あの山はめちゃきついのでもう登りたくないっす。(笑)
Commented by チェリー at 2018-11-19 23:54 x
神興神社こそ、ギブアップした王城神社調査の唯一のラインが届くところでございました。驚く程真北なんですよ~余談でございました。
Commented by lunabura at 2018-11-20 20:22
王城神社のラインなら、神興廃寺の可能性もあるかもですね。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-20 20:32 x
Lunaさん

北九州はあちこち行きたい場所があるのですが、遠いし費用も掛かるのでなかなか行けません。るなさんのブログを拝見して行った気分になっている次第です。宗像大神が天降ったとされる崎門山も行ってみたかったのですが、六嶽神社を参拝しただけに終わりました。

同社を訪問して境内の解説板を読んだところ、紀元前700年の頃、皇女3神霊山六嶽崎門峰にご降臨あり、と書かれておりびっくりしました。これは多分神武天皇の即位が紀元前660年に設定されていることから、宗像三女神はそれより古い時代になるので紀元前700年頃としたものでしょうね。で実際の降臨はいつだったのか、あれこれ考えてみました。

神の降臨とは他の神社の例からもわかるように、ある特定の神を奉じる集団が別の地に移動してそこに居住したことを意味します。と言うことは、筑紫の水沼君が大挙してこの地にやって来て、三女神を祀ったことになります。なぜ久留米市三潴町一帯を拠点とする水沼君がかなり遠い鞍手にまでやって来たのか不思議でしたが、磐井の乱を考慮に入れることで疑問は解消されました。磐井の乱を踏まえて考えた場合、三女神の降臨時期は530年前後になりそうです。

理由は幾つか挙げられますが、磐井の側に立っていた(と推定される)水沼君が、乱の後物部氏の支配地域に強制移住させられたことから、六ヶ岳の崎門峰に三女神が降臨したとの伝説が生成されたと考えられます。鞍手町誌に新北物部が磐井の乱の征討に参加していたと書かれているのは、そう理解できる補強材料になりそうです。

また旧事本紀には物部麁鹿火の弟である物部阿遅古連が水沼君の祖と記されています。こうした有り得ない内容が記されているのは、物部阿遅古連が水沼君の一族を鞍手まで連行してきたからだと考えれば納得できるものになります。さらに、鞍手には水沼姓が転じた水摩姓が数多く見られます。これも水沼君一族移住の証拠になるのではないでしょうか?

続きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-20 20:34 x
熱田神社宮司家の手書き史料の系図には、新分郷(新北)と新延に関して、鞍闇君戦功ニ依リテ賜ハル、と記載ありました。これは鞍橋君が百済の皇太子の餘昌を助けた戦功により賜ったものですが、葛子の弟である鞍橋君がなぜこの場所を賜ったのかを考えた場合、磐井の乱後、幼少だった鞍橋君も水沼君と共に移住させられたとすれば筋が通ってきます。鞍橋君の読みが(くらじ)であるのも、物部氏の祖神の子である高倉下にちなんでいるのでしょう。鞍橋君の読みが(くらじ)であり、水沼君の祖が物部阿遅古連とされるのは、いずれも物部氏が絡む似通ったパターンとなりそうです。

以上のような状況証拠から六嶽神社の始まりは磐井の乱後となる530年前後と考えた訳です。ただ、水沼君が磐井の乱の際、大和側に付いていた可能性(力関係から表面的には磐井に従っていたケースも含め)もあり、その場合水沼君が鞍手に行く動きは同じであっても中味は変わってしまいます。るなさんは磐井と水沼君の関係をどう見ておられるのかご意見を頂ければ有難いのですが…。

もう一つよくわからない点があります。高良大社周辺一帯は物部氏の勢力範囲で、その北が水沼君、南が磐井になっていると思われますが、磐井の時代には彼の勢力の強さから、物部氏エリアは磐井に席巻されていたと思われます。そこで当時の半島情勢や継体天皇の部分を横に置いて見れば、磐井の乱の本質とは先祖の地を蹂躙された物部麁鹿火と磐井の私闘なのかもしれません。こうした見方は地元にもあるのでしょうか?参考のためご教示いただければ幸いです。

いずれにしても、高良大社周辺一帯は大変興味深い場所なので機会があれば一度訪問したいとは思っています。

Commented by lunabura at 2018-11-22 22:15
酔石さん、こんばんは。
長いお話しなので、コメント欄では難しいのですが、熱田神社の系図の読み方は勘違いがありそうです。
注に鞍橋君は葛子の弟か?とあるのは、年齢が合わないからです。これは二倍暦を使ってあるので、半分の年齢にすると、系図通りになります。
近刊に詳しく書いています。

水沼君は今も久留米にいらっしゃり、連行された訳ではないと思います。
六嶽神社の縁起には成務天皇時代が書かれているので、磐井の乱の時代ではありません。
久留米の物部はまた一冊の本が必要ですね。「高良玉垂宮神秘書同紙背」にヒントが沢山書かれていますよ。

以下はスベクヒャンと磐井の乱の時代の記事です。
https://lunabura.exblog.jp/29862527/
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-23 19:37 x
Lunaさん

コメント有難うございます。確かにコメント欄では書ききれない問題ではありますね。取り敢えずるなさんのご指摘の部分を以下に書きます。

金川宮司家の手書き系図には、磐井の子が葛子で、その下に「葛子の子鞍闇君」とありました。ところが「葛子の子」の部分は棒線で消してあります。一方系図の下に「鞍闇君は葛子の弟なりは不明なり」と書かれ、「は不明なり」の部分が消したように薄くなっていました。近年宮司家が作成したパソコン史料では磐井の子として系図が書かれています。総合すれば、金川宮司家は鞍橋君を葛子の弟と認識されていることになるので、そのように書いただけの話で、別に勘違いではないし、私にとってもこれが議論のポイントではありませんよ。

ただ老婆心ながら申し上げると、年代調整に二倍暦を使うのは感心しません。継体天皇の時代には既に書紀紀年と実年代がほぼ一致していますから…。そもそも二倍暦は日本書紀で神武即位が紀元前660年に当たり、百歳以上の天皇が十数人もいることになるので、歴史研究家が辻褄を合わせるため魏志倭人伝の裴松之注に魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀とあるのに目を付けて、二倍暦で説明しようとしたものに過ぎず、これで書紀紀年を説明することはできません。二倍暦で書紀紀年を説明する方法は既に破綻しているので、るなさんの論考に採用されない方がいいと思います。日本書紀を編纂した官僚は極めて賢いので、実に巧妙な方法で年代の問題に工夫を凝らしています。それが如実に表れているのが神功皇后の部分です。

日本書紀を編纂した官僚たちは日本の歴史を古いものに見せるため、神武天皇即位を紀元前660年に設定し、多くの天皇の年齢を百歳以上にして誤差を調整していきます。もちろんそれでも調整しきれず、神功皇后のところで中国側の史料に倭国の情報が書かれている時代に突入します。例えば、神功皇后摂政66年は武帝の泰始2年(266年)で、「晋の起居によれば、武帝の泰始2年の10月に、倭の女王(台与に相当する)が通訳を何度も派遣し貢献したと言う。」と日本書紀に書かれています。神功皇后摂政66年は書紀紀年でも266年になりますから、ピタリと時代を合わせている訳です。

続きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-23 19:43 x
ところが、神功皇后摂政66年の前年である65年に「百済の枕流王薨りぬ」、との記事が出てきます。神功皇后摂政65年は書紀紀年では265年となり、一方「三国史記」では枕流王2年条に「王薨」とあり、枕流王2年は385年となります。この埋められない120年の時代差を官僚たちはどう切り抜けたのでしょうね。

そこで時代差の120年(干支二運)に注目してください。書紀紀年で265年となる神功皇后摂政65年は、干支では乙酉年で、干支二運(120年)を繰り下げるとどうなるでしょう?385年になり干支としての年代は一致してしまいます。ここに日本書紀における最大のトリックがあり、編纂者たちが年代を表すのに干支を使用した目的は、このためだったと理解されます。

要するに、日本書紀の神功皇后摂政紀は、一人の人物に、一方で中国側の史書が記す3世紀前半から後半頃の倭の時代(卑弥呼と台与の時代)を充て、もう一方で4世紀後半頃の朝鮮半島側の歴史を充て、両方の時代が充てられるように書かれているのです。とんでもない詐術と言えますが、中国側、朝鮮側のどちら側から疑問が出されても、中国側には265年の乙酉年、朝鮮側には385年の乙酉年と説明して何とか切り抜けられるようにした訳です。

従って、200年代の神功皇后は架空の人物、300年代は北九州の女傑をモデルにして日本書紀に取り込んだ実在性の高い人物となります。神功皇后がなぜ天皇でないのかも、天皇と書くと何度も朝貢した倭の女王のことじゃないかと言われかねず、それを恐れた官僚たちがやむなく皇后にしたからだと思われます。

以上のように日本書紀の年代は、神武天皇から時代を下り、神功皇后でぴったり120年の差になるよう官僚が仕組んだと言うのが実態であり、書紀紀年に二倍暦が採用された訳ではないのです。なので、二倍暦による年代調整はやめた方がいいですよ。

二倍暦が長くなったので六嶽神社に関してはまた後日に書きますが、同社に関して、その縁起では始まりが成務天皇7年とされているのも、宗像大神が顕現されたのが孝霊天皇の御代とされているのも既に知った上でコメントを書いた点お含みください。
Commented by lunabura at 2018-11-23 20:11
酔石さん、コメントありがとうございます。
熱田神社は私が見せていただいた時と変化があるようですね。確認しに伺わねばならないようです。

120年の問題は説明ありがとうございます。
でも、中国正史に神功皇后の事が書かれていますが、中国正史もやはり架空とおしゃるのでしょうね。

よろしかったら、論考はご自分のブログでしていただけませんか。お知らせいただいたら拝見に伺います。

Commented by 酔石亭主 at 2018-11-24 20:21 x
Lunaさん

早速のコメント有難うございます。

>中国正史に神功皇后の事が書かれていますが、中国正史もやはり架空とおしゃるのでしょうね。

おっしゃられる意味がよくわかりませんし、こう言っては申し訳ないのですが、基本的な事項に関するご理解がやや不十分ではないかと思います。初代神武から持統天皇までの名前(漢風諡号)は奈良時代後期の人物となる淡海三船が撰したものとされています。従ってそれ以前に神功皇后と呼ばれる名前の人物は存在せず、三船以前の時代で中国の正史に記載されるはずがありません。もしあるならそれは凄いことになりますのでお教えください。

るなさんのおっしゃる中国正史が宋史日本伝を意味するなら、各天皇の名前は日本書紀やそれ以降の日本側史料を参照したものに過ぎません。このように中国正史には確かに神功皇后(実際には神功天皇と表記)の名前はあるものの実態は日本側史料のコピーと言うことです。これで私に中国正史が架空と言うような発想は一切ないこと、上記のようにただ事実関係を淡々と追っているだけであることをおわかりいただけたと思います。

私が200年代の神功皇后が架空と言ったのは、対応する実在の人物が存在しないからです。もちろんこの時代には卑弥呼や台与がいて日本書紀の39年条や66年条に書かれているのですが、日本書紀は人物名を意図的に抜かし神功皇后がこの二人に充てられるのを避けているので、神功皇后に対応していないと判断し、架空と書いた訳です。

三船は多分、中国の色々な書籍から各天皇の名前を引いてきたはずです。神功皇后の場合、中国の697年~698年の年号が神功なのでここから引いたのかもしれません。ただその元号自体、多分ずっと古い時代の漢籍の好字から引かれたものと推察され、現状では大元となる漢籍は不明です。

続きます。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-24 20:24 x
>論考はご自分のブログでしていただけませんか。

そう思われるのも当然で、いつも長々と書いてお心を煩わせている点はお詫びします。論考は既に自分のブログに書いています。ただ私にとって北九州はほぼ未知のフィールドなため、間違いや書き洩らしが出るのは避けられず、後でしまったと思う部分も多々あります。そこで継続的に北九州の情報を発信され続けるるなさんにご質問や私の見方を書き、意見や反論を頂いたり、史料の紹介を頂いたりすることで、より理解を深めようと思っている次第です。

またるなさんにしても、今までとは異なる視点の見解は、私同様に参考になるのではないでしょうか?るなさんの記事を参照し高良大社方面も機会があれば行きたいと思いますし、今後とも貴コメント欄にて議論をさせて頂ければ幸いです。遠賀川流域と尾張の関わりについては弥生時代から平安末期までを私の以下のブログで既に書いていますので、かなり長いですが必要であれば参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2496.html
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-25 20:04 x
Lunaさん

すみません。昨日のコメントに不正確・不十分な面があったので以下補足します。

宋史日本伝は984年に東大寺の僧である奝然(ちょうねん、938年~1016年、俗姓秦氏)が宋に来て献上した「王年代紀」の記述を参照しています。新唐書日本伝も「王年代紀」を参照し、「仲哀死 以開化曾孫女神功爲王」と書いています。ご参考まで。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-26 20:12 x
Lunaさん

少し遅くなりましたが、六嶽神社に関しては以下のようにコメントしたいと思います。

確かに同社の縁起では長田彦が創建したのは成務天皇7年となっています。この天皇は国造や県主を定めたとあり、田道命は成務天皇期に初代筑紫国造になったとされていますね。ところが新入の剣神社由緒では、齋祀る始祖は田道命の裔孫長田彦と言ふ人也。とあります。裔孫は遠い子孫、末の子孫を意味しますから、成務天皇の時代に長田彦はいなかったことになります。

次に違う視点から見ていきます。田道命が成務天皇の時代に国造になったなら、成務天皇が国造や県主を定めたのが成務天皇5年なので、田道命は5年に即筑紫国造に任命され、その2年後の成務天皇7年に長田彦が六嶽神社を創建したことになります。ここから、長田彦は田道命の子と考えるしかなくなります。

一方国造制度が始まったのが成務天皇の時代と考えられる研究者は誰もおらず、5世紀末から6世紀頃と考えられています。そこで、田道命・長田彦を装飾された伝説の時代から本来の時代に戻してやれば、田道命が500年頃に国造になり、その子の長田彦が530年前後に鞍手に連れてこられた水沼君の三女神を祀ったと考えても全く違和感はありません。

また、香月家の大満子の養嗣子・倭男人は磐井の乱のとき、新北物部を率いて物部麁鹿火を支援し、531年に磐井の子の北磐津を捕らえ奴僕にしたとされます。「香月文書」の原文を見ていなので間違っていたら申し訳ありませんが、ネット上の現代語訳から判断すると、大満子は長田彦(小狭田彦)の三世孫となっているように思えます。そうでないとしても、大満子を起点に過去に遡れば、長田彦が成務天皇期の人物でないことは明らかです。まあ、天皇家でさえ仮に崇神天皇が実質初代だとすると、実際より950年程度時代を遡らせている訳で、由緒や縁起に書かれた創建年代は注意が必要です。

続きます。

Commented by 酔石亭主 at 2018-11-26 20:15 x

北磐津が連行されたなら幼少の鞍橋君も当然連行された訳で、彼が新北に置かれていたから、半島に出陣し功績を挙げた後新北と新延を賜ったと考えれば、非常に筋の通った話となります。同様に水沼君も磐井の側であれば連行となりますし、磐井を裏切って物部側に付いたとすれば古遠賀湾最奥の新北に招聘されて530年前後に崎門峰に三女神を祀り、物部の航路の安全を祈願したことになり、その際物部と縁のある地元の長田彦がお手伝いしたと言うのが想定シナリオとなります。

水沼君が今も久留米におられるとのことですが、姓名分布ランキングで水摩姓を見ると鞍手町が34に対し久留米市はゼロです。水沼姓、水間姓で見ても久留米市はゼロと一人ですからいないも同然です。

以上の状況証拠・論証から三女神の降臨は530年前後が最有力となるのではないでしょうか?
Commented by チェリー at 2018-11-27 00:57 x
酔石亭主さんへ
サイトの管理人の方が、後は御自分のブログでとおっしゃっている以上、もはやここまでとされるのがよろしいかと思います。
読者の皆さんも、心苦しさを感じてみえると思います。
ここまでとしてくださいませ。
Commented by 酔石亭主 at 2018-11-27 21:55 x
チェリーさん、Lunaさん

了解いたしました。ご迷惑をおかけしたとすればお詫びします。古代史の理解は議論によって深まるものなので残念ですが、仕方ありませんね。
Commented by チェリー at 2018-11-27 22:32 x
酔石亭主さんへ

御理解いただき、ありがとうございました。
Commented by lunabura at 2018-12-04 20:40
水沼氏はキリシタン大名の大友宗麟から神殿を焼くか、名前を捨てるかと迫られて、神殿を守るために名前を捨てられました。
水沼から藤原に代わり、現在は宮崎となっておられます。
by lunabura | 2018-11-19 21:01 | 六嶽神社・むつがたけ・鞍手郡 | Comments(19)

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