2018年 12月 01日
沖出古墳3 古墳が見つめる先、はるかに脊振山が 後円部の先は位登
沖出古墳3
古墳が見つめる先、はるかに脊振山が
後円部の先は位登
沖出古墳の後円部から前方部の向こうに見える山を写しました。
遠賀川の向こうに見える山の名前。さっそくチェリーさんが調べてくれた上に、主軸ラインなど思いがけないものを提示してくれました。
チェリーさんの画像と説明文です。
「lunaさん、こんばんは。
画像を作成しましたので、お送りします。」
「沖出古墳から撮影されたお写真と同じ方向を、カシミール3Dにて望遠で撮影しました。
真ん中の赤い点のピークが、lunaさんが撮影した正面になると思われます。
その右側の白い印の向こう側に脊振山があります。」
-まあ!同じ場所をカシミール3Dで撮影出来るなんて(;’∀’)
赤い点のピークには名前が無いんですね。
で、左の山は弥山岳!これを見た時はゾクッとしましたよ。
この麓に出雲があるのです。
そう、ワダツミで新しく登場しているエリアで王塚古墳の近くです。
それが出てくるなんて。シンクロだらけです。
さて、チェリーさんの続きを見ましょう。
「脊振山から沖出古墳をつないだ直線をそのまま延長すると位登八幡神社に至ります。
ピンクの直線が赤点のピークへのライン、赤い直線が「脊振山-位登八幡神社」のラインです。
赤い直線は、やはり前方後円墳の軸線とは少しずれるようですねぇ…
方位の角度に意味はなさそうです。」
― ここで位登八幡神社が出てくるとは思いませんでしたよ。
神功皇后が半年近くも滞在して子育てした神社です。
周囲には神功皇后の天皇即位、応神天皇の皇太子即位を伝える可能性のある帝階八幡神社があります。ブログには書いていないけど、『神功皇后伝承を歩く』の下巻「位登八幡神社」に書いています。中国正史や日本書紀の記述、GHQによる操作など、拙著をお持ちの方は御覧になってください。タイミングが合えば、こちらでも紹介します。
後円部の先にこの神社があるのは、やはり意味付けがあるのでしょう。いかにも古代氏族の聖地です。
「位登八幡神社のすぐ西側の山稜のライン上から、カシミール3Dにて撮影をしました。
沖出古墳と脊振山が直線上にあることがわかります。
反対側を振り返っても、位登八幡神社を見ることはできません。」
「沖出古墳には東西関係があります。
両子山→沖出古墳 270.00°距離 81.693km
両子山→光正寺古墳後円部 269.98°距離 102.269km
両子山から沖出古墳へのラインをそのまま延長すると、光正寺古墳前方部の端から8mくらい北側の地点になります。
両子山-沖出古墳―光正寺古墳が直線上にあると考えていいと思います。
沖出古墳で、改めて真北を測定した場合は
沖出古墳→七夕池古墳 269.97°距離 20.616km になります。」
―今度は光正寺古墳がラインに乗って来るんですか。
そこもまだ詳細を書いていませんね。
光正寺古墳は山を見ている感じがあって、その延長上に沖出古墳があるなら、早く調べなきゃですね。
沖出古墳 → 稲築八幡宮
→ 位登八幡神社
→ 光正寺古墳
どこから書こうか…
「詳しくはこちらを御覧ください。」
これを見てまたもやビックリ。
冬至の日の舞台「イソラ2018」が描くラインなんです。
チェリーさんの研究結果が生かされているんですね!
この舞台は明日ご案内します。
※今日はラジオ放送日でした。
RKBラジオで放送がありましたが、河村哲夫さんの続きに私、という意外なコラボ企画でした。
仲哀天皇の崩御についてが本日のテーマで、その亡くなり方は日本書紀にも複数書かれているんですね。その一つが御勢大霊石神社だったので、私の説明を放送していただきました。古賀市の小山田神社までです。上巻をやってます。
20181201
画像©チェリー (使用は許可を得てください。)
脊振山を基準点とするラインといえば、水城そのものが思い出されます。こちらも角度には意味がなさそうで、地形として最適なところになったのかなぁ…とも思います。
でも、水城西門から鴻臚館南館までの直線を延長すると玄界島でした。水城の堤の上に少し足場を組むと玄界島が見えそうです!官道も大まかには玄界島を基準点として水城西門とつないだものかもしれません。
とすると、西門が大切なポイントだったのかなぁ…