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ひもろぎ逍遥

4.任那四県を百済に与えてしまった「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代4 

任那四県を百済に与えてしまった



西暦512年。

穂積臣押山は任那の哆唎(たり)国守だった。百済に派遣された時、筑紫国の馬を四十頭を土産にしたことを前回書いた。

四十頭もの馬を乗せる為には船は何隻要ったのだろうか。どこから出発したのだろうか。船を出したのはどの海人族か。筑紫の歴史を再現するためには、これらを一つ一つ考察する必要がある。

前回、この馬の産地は福津市の渡半島を中心とした「高田牧」だろうと推測したが、
そこには京泊という湊があり、馬を輸入して育てたという伝承も残っている。

言い換えれば、京泊は外洋船が入港できる湊だから、そこから直接、馬を船に乗せたかもしれない。

ただ、これは単なる私の推測以上のものではない。しかし、歴史が筑紫以外の何処か他にあるという刷り込みを排除するには積極的に推論を出し合う必要があると思う。

神功皇后の時のケースを考えると、今津湾、唐津湾もまた外洋船が停泊できる。その近くに牧が見つかれば、新たな候補地が出てこよう。そんな活発な意見交換が必要な時になっていると思う。



さて、穂積臣押山の話に戻ろう。彼は物部系だった。

押山が百済に行った年の末、12月に百済が朝貢してきた。
そして、こともあろうに、「任那国の四県を与えてくれるように」と書いた文書を持ってきた。

押山も一緒に帰国したのか、それに口添えをした。

その理由は、「任那の四県は百済に近く、日本からは遠い。百済に合併するのが最上な政策で、現状のまま百済と別国だったら守れない」というものだった。

そんな理由がまかり通るのかと、理解に苦しむが、大伴大連金村はこれを聞いてはかりごとをして、継体天皇に奏上した。

これがいわゆる「任那四県割譲事件」だ。

任那を百済に無償譲渡したという、現代からは考えられない大事件が起こった。

この事件から、継体天皇は傀儡(かいらい)であり、決定権は金村に存するのがよく分かる。

百済への譲渡が決定し、文書が作成された。
物部大連麁鹿火はその文書を伝える使者に任命された。

百済の客は難波の館にいた。

麁鹿火が出発しようとすると、妻が引き留めた。
「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那らを誉田天皇(応神)に授けたあと、母の息長足姫姫(神功皇后)が武内宿禰と共に、官家(みやけ)を国ごとに設置したというのに。それを裂いて他国に与えたら後の世までそしりを受けます」


麁鹿火は、「理屈はそうだが、勅命には逆らえない」と返事すると、妻は仮病を使うようにとアドバイスをした。麁鹿火は妻の進言に従い、別の者が文書を持っていった。


こうして、紙切れ一枚で任那の四県が百済に譲渡された。大伴金村と穂積押山は賄賂(わいろ)を貰ったという噂が立った。

この四県の名は「任那国の上哆唎(したり)・下哆唎・娑陀・牟婁の四県」(みまな国のおこしたり・あろしたり・さだ・むろの四つのこおり)と『日本書紀』にある。

ここに例の十数基の前方後円墳が造られていた。そして、割譲されたあとは、ぱったりと造られなくなった。任那に赴任していた筑紫や豊、火の国からの豪族たちは帰国したのだろう。

このことを、考古学者(韓国・朴氏)は、あたかも倭の豪族たちが百済の配下にあるように書いていた。そうではなかった。

また、そこは任那だった。「任那」ときちんと書くべきだ。







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Commented at 2021-04-13 23:14 x
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by lunabura | 2019-02-07 13:53 | 磐井の末裔たち | Comments(1)

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