2019年 02月 10日
7.磐井の乱 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」
磐井の乱
527年。
近江毛野臣が六万の兵を率いて新羅と戦おうとするのに、筑紫国造磐井が協力しなかったために、兵は中途で留まった。
これが磐井討伐に発展する。
これは変だ。磐井を討伐する間に任那の戦況は悪化するはずだ。
既に外憂がある時に国内で討伐作戦を採れば国力は削がれる。とても、ストーリーとして成り立たない。
しかし、討伐作戦は進む。
継体天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢(こせ)大臣男人らを呼び出し、磐井討伐の大将軍にふさわしい人物を尋ねた。
大伴大連は麁鹿火(あらかひ)の名を挙げ、全員が推奨した。
いかにも大伴金村の独壇場で、麁鹿火が当たりくじを引くように仕組まれていた。
金村が物部と磐井の勢力を同時に削ごうとする陰謀の匂いがする。
8月、あらためて麁鹿火に磐井討伐の勅命が降りた。
麁鹿火は観念したのだろう。
磐井について、「西の戎(田舎)のずるがしこいやつで、川や山を隔てていることを良いことにして、道にそむいている」と言い、続けて大伴氏が初代から天皇家を守ったことを称え、勅命を承った。
継体天皇は将軍の印であるマサカリを授け、褒賞として筑紫より西を授けることを約束した。そして、自らは長門(ながと)から東を取ることを告げたのである。
この両者の言葉には突っ込みどころが多い。
一つ目は、地理の問題。
麁鹿火の言葉からは、磐井とは川や山は隔てているが、海は隔てていないことが分かる。ここから、天皇の居場所は磐井とは陸続きだという説がでてくるのだ。
二つ目は、磐井戦後の褒賞として「麁鹿火には筑紫を与え、天皇は長門から東を取る」と言って、山分けを約束している。ここには豊(とよ)国の存在が欠落している。
豊の国から見て西が筑紫、東が長門なので、「東西」の起点は豊となるのだ。
福岡に天皇と金村らがいる地図しか描けないのである。
ま、突っ込みはここまでにしておいて。
麁鹿火は一年かけて軍備を進めた。
528年。継体22年の冬、11月11日、大将軍・物部大連麁鹿火は磐井と御井郡で戦った。
軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れた。
この戦いがすべてを決する事が分かっていたので、両陣営は決死の戦いをした。麁鹿火軍はついに磐井を斬って境を定めた。
12月、筑紫君葛子は父の罪に連座して殺される事を恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪を逃れるように願い出た。
こうして、磐井の乱は終わる。
この御井郡とは久留米市御井町で、そこに磐井城があった。また明星山に磐井の山城があった。地元の伝承では磐井は山城を出て迎え討ち、一戦で敗北したという。
また、風土記では磐井は豊前に逃げたと伝えている。
20190210
だから、変なんです。
田中らは朝倉から筑後川の上流を渡渉して耳納山麓に着いたのかもしれないと考えていたのですが、その時、浮羽物部が援助したと想定すると、上手くいきますね。
ちなみに、この戦いは「磐井の乱」ではなく、「磐井の残党の蜂起」です。