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ひもろぎ逍遥

8.今度は加羅の港を百済に与えた 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」



8 今度は加羅の港を百済に与えた

磐井、葛子、勝村、勝頼の時代




 


さて、磐井が亡くなり、葛子の時代となった。


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磐井の乱の翌年、529年3月に百済王下哆唎(たり)国守穂積押山を呼び出して加羅の多沙津をねだってきた。(押山は512年には哆唎国守と書かれている。)

理由はそれまでの航路は風波がひどいので朝貢の品々が濡れたり壊れたりするからというものだった。それを聞いた穂積押山は朝廷に奏上した。

その月のうちに、物部伊勢父根らが派遣されて港を百済王に下賜した。父根は数年前に伴跛(はへの)国に襲われて丸裸になり、百済の支援を受けた男だ。

この港の下賜を知って驚いたのが加羅の王だった。
勅使に、
「この港は倭国が官家(みやけ)を置いて以来、加羅が朝貢するための港です。どうして簡単に隣国に与えたのですか。最初に冊封した条件と違っています」
と言った。

勅使の父根らは加羅王の面前で百済に港を下賜するのは難しいと判断して大嶋に還った。そして、改めて別に録人(ふびと・下級役人)を派遣してついに百済に港を与えた。

加羅はこのために日本を恨み、新羅と同盟を結んで新羅王王女を娶った。王女との間には子供も生まれた。

新羅は王女を嫁がせる時、百人の従者を付け、諸国に分散させて新羅の衣冠を着せた。ところが、衣冠を新羅風に変えさせたことを知った(任那の王?)アリシトは怒り、使いを派遣して元に戻した。

新羅は面目を失って王女を取り戻そうとして、
「先に汝が嫁に迎えたいと言ったので許して嫁がせたが、こうなったからには王女を返すように」
と言った。

加羅のコホリチカ
「夫婦になった者をどうして裂こうとするのですか。子供もいるのに、捨ててどこに行かせるというのですか」
と言った。

こののち、(新羅は)刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)の三つの城を奪い、また北の国境の五つの城を奪った。



メモ こうして加羅の港は百済に与えられ、激怒した加羅は新羅と通婚したが、新羅の侵略を受ける結果となった。最後の一文はまたもや主語の新羅が削除されていたので、文脈から補った。

この時の倭国の外交政策はひどいな。やっぱり、穂積押山―大伴金村ラインかな。


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by lunabura | 2019-02-11 19:58 | 磐井の末裔 | Comments(0)

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