2019年 03月 10日
持統天皇と天山5 広瀬天山神社 祭神はもともと天御中主だった
広瀬天山神社 祭神はもともと天御中主だった
今回は天山神社三社の西に位置する広瀬(唐津市厳木町)について、『東松浦郡史』(大正14年)を読んでみたい。

驚いたことに、祭神がこれまでの二社と全く違っていた。いったいどういうことだろうか。
まずはその記事を読んでみよう。
<天山宮 厳木村字広瀬
祭神 天御中主尊、稚産靈尊(わかむすび)、倉稲魂尊(くらいなだま)
天山嶽の麓、小城郡二社、松浦郡一社嶽の艮(うしとら)にある。
祭日11月2日
記事にいわく、そもそも人皇41代持統天皇の御世に、鎮西に船が来て、対馬が異国風俗の者に奪われようとした。
そこで参議藤原安弘が勅命をたまわって退治した。
この時、天皇からの恩賞として晴気の里を賜った。民は安弘の徳を慕って集まり、天山の下に住んだ。
そこで安弘は天御中主尊を天山の嶺に祠を建てて祀り、庶民の擁護と五穀豊穣を祈った。
そののち、文武天皇大宝元年(701)11月15日、安弘勧請の天御中主尊を広瀬、本山、岩蔵に勧請し、三か所を天山宮とした。山上を上宮、下を下宮と呼ぶ。>
このように広瀬の祭神は本来、弁財天ではなかった。天御中主尊だったのだ。
藤原安弘が天山山頂に尊を祀り、広瀬、晴気、岩蔵の三社を下宮社とした。
これはいつのことか。
持統天皇の在位を調べると690~697年となっている。
白村江戦の後になっても、対馬が異国人に奪われようとしたため、参議の藤原安弘が勅命を受けて敵を退治し、その褒美として晴気の領土をもらった。
これを機に民が晴気に移り住み、民の安寧を祈願して天御中主尊や五穀豊穣の神々を祀ったという。
それから彼は701年11月15日に、下宮三社を創立した。
この時までは祭神は天御中主尊だった 。
ところが、前回までに調べたように、702年に岩蔵で光と水と神託の奇跡が起こってから三女神信仰が加わった。
こののち、人々の間では女神信仰が広まったのだろう。いつしか、天山の神は天御中主尊から三女神となり、弁財天となった。
これなら、天山(あめやま)の名の由来が祭神と整合する。
各地では祭神が弁財天に上書きされたが、厳木(きゅうらぎ)の広瀬天山神社にはその影響が少なかったのだろう。当初のままの神が祀られていた。
現在、境内掲示板に書かれている祭神は
<天御中主命、倉稲魂命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命>
である。
昔から天山の祭神の論争があったようで、
<俗に弁財天と称するは非なり>
と書かれたものもある。
晴気の里が藤原安弘への褒賞だとすると、当時、何か産業があって大きな価値があったことが想像される。
それを授けた持統天皇自身も、父の天智天皇が佐賀(田手神社)に来たことがあるし、本人も朝倉橘広庭宮に付いて来ていたはずで、この山の方面を遠望したこともあろう。この辺の土地勘があったと考えられる。
702年に岩蔵で起きた光と湧水と神託の奇跡がダイレクトに帝と持統太上天皇に届いて、その反応が早かったことを不思議に思ったが、藤原安弘が参議正三位民部内大臣で、天皇と直接会える身分だったことを考えると、当然の事となる。
三つの天山神社が一直線に並んでいることは以前から知っていたが、それが明星山(みょうじょうざん)に連なるのはチェリーの発見だ。
何度も書いたが、明星山では阿倍磐井が山城を堅固にした。
磐井の孫は宮地嶽神社の祭神だ。阿部氏であり、藤氏でもある。
一方、天山の最初の祭神の天御中主命は志賀島の沖津宮の祭神でもある。
天御中主命を祀ることが出来るのは安曇族だけである。

このキーワードは失われた明星山の祭神が天御中主命だったことを示しているのではないか、という思いがずっと心から消えない。チェリーの引いたラインを見てから。
藤氏は藤原氏であるが、倭国の敗戦後、その長たる阿倍(阿部)氏の一部は藤原氏と名を変えたのではないか、という思いも心から消えない。
もともと物部の山だった明星山が磐井の時代に天御中主命を祀ったのではないか。
白村江戦のあと、藤原安広はその神を天山に勧請した。
阿志岐山も天山(あめやま)という別称を持ち、宮地嶽神社が祀られていて、宮地岳ともいう。
これが倭国の祭祀ネットワークだったのではないか。
しかし、安曇族は敗戦し、天智天皇の崩御のあと、壬申の乱で天武天皇が勝利した。この時、宗像徳前の孫の武市皇子が活躍したことが、天山が三女神信仰に塗り替わった原因ではないか。
そんな仮説が心に芽生えている。
その思いを強くさせるのが、この広瀬の天山神社の摂社群である。
<八幡神社、八坂神社、黒尾神社、宮地嶽神社、天満宮>
の五社で、宮地嶽神社がここにも祀られているのである。
この広瀬天山神社の記録を追加した新たな年表を記そう。
年表
690~697年 参議藤原安弘が対馬を奪おうとした外国人を退治して晴気を持統天皇から褒賞としてもらう。
701年 11月15日、藤原安弘は広瀬、本山、岩蔵に天御中主尊を勧請する。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
10月15日 藤原安弘が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)
201903010再掲 一部追加
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