2019年 03月 15日
持統天皇と天山7 母としての持統天皇の人生を考える
母としての持統天皇の人生を考える
佐賀の天山神社で起きた不思議な出来事に対して、持統天皇は何故敏感に反応したのだろうか。どういう連絡網があったのかと、これまで三つの神社の縁起を調べて行った。
その結果、藤原四兄弟の一人、藤原前房がまだ21歳のころ、対馬を侵略する異国人を撃退した褒賞として小城の晴気をもらったということが分かった。
この晴気の価値はどんなものだったのかはまだ謎である。
また、持統天皇が何故、その価値を知っていたのかと考えた時、まずは斉明天皇の筑紫遷宮に付いて来て、筑紫や佐賀の土地勘があったことが理由の一つに挙げられた。
持統天皇の福岡の滞在は少なくとも2年以上、しかも白村江の敗戦を体験し、そのトラウマを持っていることは間違いないと思われた。
この時の持統天皇の名は鸕野讚良(うののさらら)で、夫は大海人皇子である。
日本書紀の持統天皇紀には
「持統天皇は天智天皇元年に草壁皇子を大津宮で出産された」
と書かれている。
天智天皇元年=662年で、斉明天皇の崩御の翌年のことである。
持統天皇(鸕野讚良皇女)が出産した「大津宮」とは「娜の大津宮」のことで、福岡での出産となる。
(巧妙に場所が分からないように仕組まれている)
ここからは鸕野讚良の名で語っていこう。
鸕野讚良が大海人皇子に嫁いだ時は13歳。今なら中学1年生。当時の適齢期だ。
讃良(さらら)は叔父と結婚した。
夫は27歳。夫は既に宗像徳前の娘と結婚していて長男がいた。高市皇子である。長男は数えで3歳。可愛いさかりだ。
通い婚の時代なので、讚良はその男の子を見ることはなかっただろう。
父の中大兄皇子は32歳。
時の天皇は斉明天皇、64歳。
斉明天皇はどのような考えで自分の子と自分の孫を結婚させたのかは分からない。
同じように嫁がせたのは讚良だけではなく、同母姉の大田皇女たちもだ。
当時は、姉妹で嫁ぐのは一般的である。
まだ大人になりきっていない讚良に子が授からぬうちに、4年後の661年に唐・新羅との戦いとのために斉明天皇一族は筑紫に渡る。
姉の大田皇女は既に大伯皇女を瀬戸内海の航行中に出産した。
斉明天皇は661年に筑紫の朝倉に到着した翌日、宮地嶽神社、次の日には福成神社と、落ち着く暇もなく精力的に先勝祈願をしてまわった。
讚良は筑紫で懐妊し、草壁皇子を出産した。18歳になっていた。百済の滅亡や百済王子の返還など、不安な情勢の中でのことだった。
夫の大海人皇子はこの頃、筑紫の音楽に興味を惹かれ、楽しんでいたことを真鍋大覚は記している。
讚良が草壁皇子を出産したころ、父の中大兄皇子が筑紫で天皇に即位した。
天智天皇である。
663年の白村江戦の敗戦を耳にしたとき、讚良は19歳。数えで2歳になった皇子を不安げに抱きしめた事だろう。我が国はこれからどうなるのか、と。
そして十年もたたないうちに起こった戦いは国内戦。今度は自分たちに直接、降りかかってきた。壬申の乱だ。672年。
天智天皇の崩御がきっかけだった。
吉野に逃れる夫。讚良は子を連れて夫に付いていった。この時、讚良は28歳になっていて、自分で決断することが出来た。子は11歳。
戦いは勝利した。
讚良が45歳になった時、夫の天武天皇は崩御した。そして、みずからが即位して持統天皇となる。愛する我が子はその3年後に27歳で薨去してしまった。689年のことだ。
その頃のことだ。
対馬に異国の風俗の者たちが乗り込んできた。我が国を守らねばならない。再び戦いが始まる。
持統天皇はその討伐を不比等の子に命じた。それが安弘。のちの房前(ふささき)だ。房前が討伐に成功すると、褒賞として佐賀の天山の麓「晴気の里」を与えた。
それからは次々と良い知らせが届いた。
天山に天御中主を祀ったのち、三女神の光が飛んできて四方を照らし、童女が神懸かりして国家鎮護を約束すると、泉が湧き出した。
この時は既に持統天皇は孫に天皇の座を譲り渡していた。孫の治世の安泰を心から願ったことだろう。
701年、厳木(きゅうらぎ)で広瀬の天山神社が創建された時、持統太上天皇は57歳。文武天皇は19歳。
その2年後、持統太上天皇は崩御した。天皇初の火葬を選んだ。
神道と仏教。
持統天皇は国家を背負って二つの世界にすがって生きて来た女性なのである。

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