2019年 04月 23日
日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル
日本武尊の足跡
御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル
前回の老良神社から遠賀川左岸の土手を遡っていく。
8キロほどだろうか。筑豊本線の植木駅を目指す。
「植木」という地名は日本武尊ゆかりの地名だ。
植木駅の南に三叉路があるので、右手、線路沿いの道を選ぶとすぐに御山神社に出る。


藤棚が目印だ。
参道の上を藤の花が覆っている。

左は「植木」の碑。中央が貴布祢社。 右の石祠が御山神社だ。「おやま」と読む。
主祭神は日本武尊 相殿に宮簀姫と須佐之男命
真新しい掲示板に
<第12代景行天皇の皇子、小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休憩され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、檀を築き一株の松を植えて後世の験とされた。
名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。>
とあった。
日本武尊はいったん鞍手の剣岳に登って国見をしてこの地で休憩したという。
この時、弟彦公に命じて祭壇を築かせ、松を植えた。
これが「植木」の地名の由来となったが、注目したいのは「弟彦公」の存在だ。
日本書紀には日本武尊に熊襲討伐の勅命が下りた時、武尊は弓の名手を連れて行きたいと願った。この時推挙されたのが美濃国の弟彦公である。
この弟彦公が肥前での川上梟帥(たける)討伐の時に副大将として出てくる。
肥前と筑豊と離れた所に別々に伝わる伝承を繋ぐ重要な人物なのである。
ところで、何故、この地に祭壇を築いたのか。
その答えはもう一つの掲示板に書かれていた。
<今から1870年の昔、景行天皇さまの皇子で、日本武尊といふお方が九州の悪者の熊襲を、たいらげに来られたとき、この御山の地に陣所をつくられました。その記念として村人たちが社をたてて、日本武尊ご夫妻と、スサノオノミコトをお祭りして御山神社としました。(略)>
熊襲討伐の為に「陣所を作った」ため、祭祀をしたのである。
熊襲がここに居たのか?
それが忘れ去られた金剛タケルだ。金剛タケルは金剛山の近くに居たという。
金剛タケルは江川梟帥(たける)と言い、川上梟帥の弟だった。

画像の中央を遠賀川が南から北に流れている。
左岸に御山神社があり、その西に剣岳がある。
剣岳に登ると、今も金剛山と福智山が良く見えている。
だから、この国見は金剛タケルの拠点を見定める国見だったのである。
日本武尊は尺岳にも登って国見をしている。
鳥野神社にも行っていて、多分尾根道を通って敵状視察をしたのだろう。
金剛山から尺岳にかけての馬蹄形の山容は恐らく阿蘇の外輪山のような成り立ちに思われる。
火山噴火による陥没ではないか。(専門家ではないので、想像に過ぎないが)
恐らく「金剛」の地名のように、金属を産出する所で、梟帥族(熊襲)がそこで生業を行っていたと考えられる。
熊襲討伐の理由は「朝貢しないから」というものだ。
いつの間にか、熊襲と景行天皇の間には朝貢関係が生じていたのだが、何を朝貢したのかというと、やはり金属と武器ではないか。
それを拒否したことから、熊襲討伐となった。
さて、日本武尊の採った戦略はどうだったか。
結局香月氏の拠点、すなわち黒川を遡って、北から攻めたことが香月文書にある。
この植木から正面攻撃の作戦を採るには遠賀川を軍隊が渡るという難題があり、後方からの攻撃が有効だったのが現地に立つと良く分かる。
20190423
ヤマトタケル兄弟が携えていた弓矢・剣を収めているんだそうです。そこの由緒に、近くの「乙洞」は美濃弟彦の出身地だという記載がありました。
太刀矢神社から川沿いに1km程も下ると「清瀬神社」があり、大碓命(双子のお兄さんの方)を祀ります。この地にお兄さんが住んでいたのだそうです。
大碓命のお子さんにも押黒弟日子王(おしくろのおとひこのみこ)がみえて、ムゲツ氏の祖となっています。でも、こちらは年代的に無理かなぁ…
調べてみえた方の記事をご紹介しますね。チェリーの文字をクリックすると開くようにします。








