2019年 05月 16日
悠紀田・主基田の由来
悠紀田・主基田の由来
令和元年、大嘗祭で奉納される稲を育てるための悠紀田・主基田を作る県が卜占で決まった。
ウィキペディアによると、その語源について、
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
とする。
これと異なる語源を伝えていたのが真鍋大覚である。
すでに何度か過去に記し、講座などでも伝えているが、今日は改めて「悠紀田・主基田の語源」として視点を変えて記してみたい。
「悠紀田・主基田」の由来は「水城」にあった。
まずは水城(みずき)について、話しておきたい。
水城は『日本書紀』に記され、福岡県に実在しているが、これ以外に「小水城」が十近く確認されている。
この水城築造の目的については、現代では「防衛施設」として説明されている。
しかし、大河や小川を堰き止めて、敵が来たら断ち切るという戦法は、下流域の洪水と田の喪失、伝染病の流行を招くため、守るべき人民と食料、国土を失うことが前提となる。
これでは亡国のための作戦となってしまう。
この「防衛施設」説は、国と人民を守るという、本来の目的を考えもしないトンデモ説と考えている。
これに対して、真鍋大覚は、水城は「農業用の貯水施設」だったことを伝えている。
洪水や渇水のため、田の水が不足してきた福岡平野の水を管理し、水田を潤すためのものだった。
そのため、水城の下には巨大な導管が四本も埋め込まれ、取水口の蓋を開け閉めしていた。
取水口を開く時には、水城の上で神事も行われていたという。
この水城は1.2キロの巨大なものだが、「小水城」は小さな川を堰き止めて出来ている。
土手の下には導管がやはり埋め込まれている。
この導管は「根太扉」(樋)(ねだび)と言い伝えている。
これは導管が発見される前から本に書かれていた名称だ。
さて、これが「悠紀田・主基田」の由来になるというのである。
川を堰き止める土手は、冬の積雪が崩れて怒涛の如く流れ出して、下流の水田や人家を埋めていくことに対処するものだったという。いわゆる山津波対策だ。
これが段々畑の形成の始まりとなる。
そして万葉の頃までは、麓の谷にこの小水城を置いたという。
小水城には、冬には土手の上手に「水」が蓄えられ、下手に「麦」が蒔かれた。
夏になると根太扉の閘門を開いて上手から下手に水を送り、下手に水が溜まると、「早生の水稲」を植えた。
やがて上手の水が無くなると、そこに「晩生の陸稲」を植えたという。
この上手の田を「悠紀田」と言った。「雪」が解けた水と言う意味だ。
下手の田は下田(すけた)と言った。「すく=受ける」という意味だ。
「雪田」が「悠紀田」へ、「すけ田」(受け田)が「主基田」と、好字に置き換えられたことになる。
この農法を真鍋は「瀦水塘耕作」(ちょすいとう耕作)と言っている。
筑紫の耕作法が何らかの事情で、皇室行事の名称に組み込まれたということになろう。
その時、本来の意味を知らない人が
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
と新たに意味付けをしたと考えられる。
福岡の風習が皇室行事に組み込まれた例はこれだけではない。
他に探すと、今も皇室で奏上される阿知女作法がある。
安曇磯良という倭国の王を呼び出す歌だ。
また、腹赤魚を食す行事が五節会に組み込まれた。
この行事は旧山門郡や有明海に由来があり、高良山にも専門職がいた行事だ。
倭国の風習がこうして姿を変えながらも今に伝えられている。
20190516
