2019年 05月 24日
ユールとフライヤは日本で大山祇とコノハナサクヤに変化した?
那珂川市に残る「御火焚き」(おひたき)の行事の由来に、来年の暦の出来上がりを喜び、古い暦を焼き捨てるものだった、という話が真鍋の本に出てきます。
語源はギリシア語だといいます。
裂田神社や伏見神社に残っていて、拙著なら下巻の66番裂田神社の所に書いています。
その日の到来を告げる「御火待星」(おひまち)という名がオリオン座のベテルギウス星につきました。
この日本列島に来た様々な人種の中に、北欧から来た渡来人もいるわけで、春の到来を喜ぶ冬至の儀式が那珂川の御火待行事に継承されたのではないか、という考えを真鍋は示しています。
数万年前の氷河期、あるいは凍土の信仰や情景が古代日本に伝わり、現存する神事や行事、シャーマニズムにその残り香を見つけているわけです。
そして、糸島から那珂川、脊振山系に多くみられる大山祇やコノハナサクヤの神社については、その原型として北欧のユールとフライヤの姿を見ています。
(画像出典 ウィキペディア)フライヤ
(画像出典 ウィキぺディア)粥をもらうユール・トムテ
以下は該当部分です。
<北欧のノルマン民族はユールとフライヤの二神が去る年と来る年を渡しあう饗宴とされていた。
ユールは夜であり、フライヤは昼であったと説く学者もあれば、又ユールは冬であり、フライヤは春であると説く学者もあり、二千年も昔の神話の解釈は西洋の本家本元でもいろいろとわかれている。
御火待はまさに一陽来復を願う凍夜の民族の数十万年に及ぶ儀式の名残りであったのかもしれない。
御火待はまた一年の暦制を更新する復活の祭典であったかもしれない。
暦制は氏族一年の日程表に他ならなかったから、氏族各位の合議によって採択された。
その時の元旦は冬至にあったから、いながらにして冬至を心得る目標として神殿を冬至の入日にあわせて建てていた。(拾42)
今から5万1500年前に始まり、1万2300年前に終わった第四紀氷河期の間は、一年の季節は冬と春だけであった。
夏と秋はなかった。現在の北極圏に近い地域の一年と同じである。
遠い祖先は冬をもってユールの神なる大山祇命なる氷河の高嶺をあて、春はフライヤなる木花佐久夜毘売の万朶(ばんだ)の花弁をあてた。
今も那珂川には山積(住)の社が背振から西畑に並ぶ。「儺」あるいは「奴」とは夏を知らぬ残雪の形容であり、花の色の白さの形容であり、胡語のニニ、あるいはヌールの和訳であった。>
(儺の国の星拾遺p43)
ユールとフライヤについては宗像大社の長手の所にも書いています。
<20190524>