2019年 05月 29日
松野連系図と符合した日本武尊の戦い
松野連系図と符合した日本武尊の戦い
「松野連系図」というものが熊本菊池の松野家に伝わっている。
その始まりは呉王夫差で、熊襲の名を伝え、倭の五王に連なる系図だ。
ご存知の人も多いだろうが、このブログでは初めて扱う。
それというのも、昨日系図のファイルを取り出した時、その系図が出て来たからだ。
そして、二人の名に目が釘付けになった。
それは取石鹿文と弟鹿文の名だ。取石鹿文には「川上梟帥」の注が添えられていた。

「倭国王のふるさと火ノ国山門」より。丸や四角は綾杉作図。
あの川上梟帥だ。
佐賀の真手山で日本武尊に殺された筑紫の王の名ではないか。しかも、弟がいる。しかも二人の系図の続きは断絶していた。
よく見ると、赤丸と緑丸に同じ名の兄弟が書かれている。
いずれが日本武尊に殺された真手山の川上梟帥か、と考えた。
青丸を見ると、「厚鹿文(あつかや)と市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)」という「父と二人の娘」が記されている。
景行天皇の謀に乗せられて父の厚鹿文殺しに手を貸した市布鹿文は景行天皇に殺された。その後、妹の市鹿文が火の国造となる。
そうすると、日本武尊は景行天皇の子なので、時代的には緑の取石鹿文(とりしかや)兄弟が佐賀の川上梟帥と筑豊の金剛山梟帥に該当する。
彼らは熊襲だ。熊襲は南九州にいたイメージがあるが、古事記では九州となっている。
もともと筑紫に取石鹿文がいて、日本武尊が攻めて来たので佐賀(火国の一部)に逃げたと地元では伝えている。
日本武尊とは川上梟帥から貰った名だが、前の名は小碓命だ。
小碓命は何故、熊襲の名を襲名したのか、疑問があったが、熊襲がもともと九州すなわち倭の王家だったとすれば合点もいく。倭王征服の象徴だったのだ。その証拠ほどでもないが、古事記では日本武尊とは書かず、倭建と書いている。
また、系図上、川上・金剛兄弟の所で断絶するのも道理だ。皆殺しなのだから。
さらに、系図では、この王家はオレンジの四角に囲った「難升米」のように魏志倭人伝に出てくる人物も登場する。
この人たちも系図では支流で、次世代は途絶えている。
そして、本流には続きに倭の五王の名がずらりと出てくる。
玄界灘に立つと朝鮮半島への航路が浮かぶが、熊本に行くと、海の向こうは中国だ。福岡南部あたりから南には中国語の発音がかなり濃厚に伝わっている。
今日は、此の辺で。いずれ、じっくりと系図を読み込んでみようと思う。
明日はバスハイクで肥前すなわち火前国に行く。
7月は幣立神宮、8月はこの菊池へ。火後国だ。お楽しみに。
<20190529>



そうしないと、どんどん話が逸れて行ってしまいます。
卑弥呼以外にナジメも見えますね。これは別に論を立てて話すのが良いでしょうね。


誰も語らない佐賀の川上地方(大和)の邪馬(ヤマト)台国の場所かもです……◎m(_ _)m
これが、倭国大乱の時代の事か、卑弥呼の後の男王が川上タケルの事か……◎m(_ _)m

この時代に出てくるトヨは、與止日女神社のトヨ、壱岐真根子の娘、武内宿禰の奥さん、高良玉垂尊の奥さん……です
日本書紀はこの時代の反逆者は全て熊襲と呼んでいたのかと……
次の時代は、土蜘蛛……◎m(_ _)m