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ひもろぎ逍遥

マルコポーロを乗せた閩人(びんじん)は日本にも宣教師を連れて来た

マルコポーロを乗せた閩人(びんじん)は

日本にも宣教師を連れて来た




マルコポーロ(1254 – 1324)は「東方見聞録」を書いた人で、日本をジパング(黄金の国)として紹介していることで有名だ。

このマルコポーロについて、
改めてウィキペディアを見ると、元のクビライの元で17年間過ごし、帰りに海路で中国の泉州の港から14隻のジャンク船団でインドネシアやインドの南を通ってイタリアへ戻っている。

途中、スマトラ島では風待ちのために5か月も滞在し、二年がかりで帰国した。

水夫を除いた600人の乗組員のうち、生き残ったのは18人だったというから、その旅の過酷さは想像を絶する。



「東方見聞録」は兵士となって捕えられたマルコが収監中に口述筆記したものというので、不思議な巡り合わせで本が出来たことになる。



そもそも、マルコが元に向かった理由が、クビライが「リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた」というのが面白い。



また、フェルナンデス・メンデス・ピントという人は1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡っている。



で、今日の話はマルコポーロやピントではなく、彼らを乗せた船団が「閩人」(びんじん)であると、真鍋大覚が記録している点についてである。



閩人は水先案内として、日本にも渡来しているという。

宣教師などを日本に導いたのが閩人で、彼らは星を見て行く手を「三」とか「五」とか指図していたので、倭人は閩人を「三五殿」と呼んでいたという。

「三」が上下、南北を示し、「五」が左右、東西を示していたことは何度か書いたが、筑後川沿いに「三」のつく地名が多いのが、この「数字で方向を示す」文化によるものだ。

この閩人について、ウィキペディアによると、
琉球国王・察度(在位1350-1395)の時代、1392年に洪武帝の命により、多くの学者や渡海士などの職能集団が来琉したと言われ、閩(びん)と呼ばれた、現在の福建省からの渡来人であり、閩人三十六姓と呼ばれた、とある。

四大華僑族群の一つとも。



ダイナミックに南航路を操って多くの人と文化を往来させたのが閩人だということになる。


話は飛ぶが、「曽根崎心中」に出てくる丁稚(でっち)の名に「三五郎」という小僧がいて、それは閩人の末裔だと真鍋は記す。

江戸時代の人にはそのような共通認識があったのだろう。今では想像もつかない話だ。



これら閩人もまた、オリオン座を見ながら渡海したのである。



と、今日も歴史カフェの「オリオン座」の予習編。




「東方見聞録」もマルコポーロも名前を知っているだけなので、その生涯を見ると結構面白い。

「ジパング」という言葉も「日本国」の中国語発音のリーベンコウ、ジーペンクから来ていると言う説が書かれていた。

確かに、「日本」の発音はジーペンと聞こえる時がある。当時の日本は金よりも銀の方が価値があり、支払いを金でしていたので、黄金の単語と結びついていったようだ。
かなり、納得。



歴史カフェ623の案内は





20190613



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by lunabura | 2019-06-13 20:49 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

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