2019年 06月 16日
山上憶良 嘉麻市で選定した三部作 「瓜食めば 子ども思ほゆ」
山上憶良 嘉摩三部作
6月27日にバスハイクで飯塚市と嘉麻市に行くが、そこには重要な古墳がある。
王塚古墳と沖出古墳だ。
午前中に飯塚市の王塚装飾古墳館を訪れ、午後に嘉麻市の沖出古墳を見学する。
いずれもきちんと保護されていて、特に装飾古墳館には実物大のレプリカが作られ、その鮮やかな壁画が体感できるようになっている。また見学できるかと思うと、楽しみだ。
その古墳館の前に万葉歌碑があり、この筑豊もまた万葉集と縁が深い事が分かる。
山上憶良が筑豊で「嘉摩三部作」を選定しているのである。
嘉摩郡には郡家(郡役所)があり、筑前国守として赴任してきた憶良は筑豊にも視察に来ていたことになる。
今回、「嘉摩三部作」の詞書や後書きを読んでみた。
三部作は800番から805番。長歌と反歌計六首で成り立っている。
憶良はこの嘉麻市の郡役所で自分の歌を選定したのだが、日付が「神亀5年(728)7月21日」となっている。
実は、この年に大伴旅人の妻が大宰府でなくなっているのだ。
そこで、憶良の三部作の直前の歌を見ると、同じ日付で憶良による「旅人の妻への挽歌」が載っていた。
言い換えると、憶良は7月21日に旅人の妻への挽歌を上奏し、みずからの過去の作品の中から、三部を選りすぐって書き残していたのだ。
推測するに、嘉麻市に滞在していた憶良の元に「大宰帥大伴旅人の妻の死の知らせが」届き、その挽歌を創作したのだろう。この時、自分の過去の作品を見直して、創作のよすがとしたのだと思う。
そして自分の作品のベスト3を選んだ。憶良はこの時69歳になっており、自らの死も考えずにはいられなかっただろう。
大宰帥の妻の挽歌の製作を先方から依頼されたのか、みずから創りたくなって創ったのかは分からない。
今日は、歌を鑑賞するよりも、その状況を知っておきたい。
旅人の妻(大伴郎女)の死の具体的な日付は分かっていないが、神亀5年6月23日の日付で旅人が「弔問に応えた歌」が一首載っている。(793番)
ほかでホトトギスの歌が詠まれたものも多く、その死は今頃の季節だったのかもしれない。
794番は「日本挽歌一首」という長歌で、795番から799番まで、反歌が切々と詠まれている。「筑前国守山上憶良上る」と最後に書かれているので、憶良がその歌を奏上したのである。
同じ日に、先述のように憶良は「嘉摩三部作」を選定した。その三部作のうち、反歌三首を挙げてみよう。長歌は省略する。
801 反歌
ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに
ひさかたの あまぢはとほし なほなほに いえにかえりて なりをしまさに
(天に昇る道は遠い 素直に家に帰って 生業に励めばよいのに)
ひさかたの:枕詞
803 反歌
銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも
しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
(銀も金も玉も何になろう 子という勝れた宝には及ばない)
805 反歌
常磐なす斯くしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
ときはなす かくしもがもと おもへども よのことなれば とどみかねつも
(永遠の石のようにありたいと思うが この世の定めなので 時の流れは留められない)
神亀5年7月21日、嘉摩郡にして選定しき。筑前国守山上憶良
子煩悩であり、老いに直面したようすが良く分かる。
803番 「銀も金も玉も何せむに」
のように、教科書に出てくる歌もある。これが、嘉麻市で選定されていたのだ。
郡家(郡役所)は今の稲築町鴨生にあったという。地元では郡家の場所は特定されているのだろうか。
嘉麻市について、流れを見ると、
3世紀には稲築八幡宮に神功皇后が訪れているので、協力的な豪族がここにはいた。
そのすぐ南にある沖出古墳の被葬者が4世紀後半に埋葬された。
安閑天皇2年(535年)に鎌屯倉が設置された。
そののち郡家が設置されて、8世紀に山上憶良が視察に来た。
となる。
ここは遠賀川中~上流域の右岸。軍家のあった鴨生には丘陵地帯があるが、ほとんど団地化されているようだ。
バスハイクではそこまでは行かないが、その南の漆生(うるしお)を廻る。あらためて地形を見るのが楽しみだ。
<20190616>










