2019年 10月 29日
熊襲タケルが逃げ込んだ真手山へ ここは大和町 神崎~佐賀市 3
『肥前風土記』には、巨大なクスノキが佐賀にあり、朝日や夕陽を浴びると、その影は25キロほど離れた所にも届いていたと書かれている。
日本武尊はその栄えた姿を見て「この国は栄の国というがよい」と言った。
栄(さか)が佐嘉になり、佐賀になったという。
この話には佐嘉川や川上の所に出てくることから、與止日女神社付近の話と考えられた。
與止日女神社の鎮座地は大和町川上。
この與止日女神社の境内には朽ちたクスノキの巨木の一部が保存されている。
その巨大さには誰もが声を挙げた。
このようなクスノキが聳え立っていたのだろう。
與止日女神社に隣接した所に実相院がある。
ここも行基が創建した。
地形を見ると、城壁のような崖の上に実相院は建っていた。
青いシートは台風によって崩れた跡で、通行不可になっていた。車道なら行ける。
このような地形を弥生人は好む。高地性弥生集落という。
川の氾濫を避け、敵の襲来を逃れて暮らせる地形だ。
今では確かめようもないが、寺院が建つ前には遺跡があったのではないか。
この地形を確認して次の健福寺に行くとやはり同じ地形だった。
真手山に建っている。
ここに、熊襲タケルが仲間を頼って逃げ込んだ。
健福寺の前からは佐賀平野が見渡せる。
ここからは誰が近づいているのか、良く見えた。
日本武尊は武内宿禰らと共に船で近づいたが、やはり行軍は出来なかったのだろう。
夜を待って女装し、宴に紛れ込んだ。
日本武尊は一太刀目に「我こそは筑紫野で見参した小碓尊(こうずのみこと)だ」
と名乗った。
二太刀目を振り下ろそうとすると、「まて」と言われた。
それが山の名の「真手山」の由来となった。
熊襲タケルは、殺される直前に、「我が姓は熊襲。九州全土を我が家としていた。
しかし、最期の地名を採って川上タケルと改名する」
と告げ、小碓尊には日本武尊の名を与えた。
もちろん話は潤色されているのだが、ここは「大和町川上」。
ヤマトタケルのヤマトは案外、この地の名前を付けたのではないか。
と、何故か、ふと思った。
古事記では倭(やまと)タケルと記す。
この時のヤマトタケル軍の副大将は弟彦公。鞍手の剣岳にいた。そして、補佐役は武内宿禰だった。
この決戦の前に、熊襲タケルは筑紫の穴倉陣に逃げ込んでいたが、日本武尊らが突き止めて攻撃した。しかし熊襲タケルは既には逃げ、佐賀に来ていた、と健福寺の記録にある。
川上タケルの墓は寺の裏山にあり、近年まで分かっていたが、今は藪になってしまい、もう分からないだろうと住職は語る。
行基はこここそ、一番供養したことだろう。
さて、私たちが訪れた日、この山には黒い雲が広がり、時々雨を降らせていた。
熊襲タケルの事を思ってここに来た人は私たちが初めてだろう。
田油津姫の時も、田川市やみやま市で冷たい雨が降り続いた。
涙雨みたいだね。
そう言いながらも、空には、どこか明るい光が差していた。
こんな時には虹が出そうだよね、と言っていると、本当に隣の山に虹がかかった。
四十分経って博物館に着いても虹がかかっていた。
今日の話は⑤⑥⑦のエリア。
⑤與止日女神社
⑥実相院
⑦健福寺
<20191029>
倭国の大将に勝負を挑みに(挑み方は卑怯ですが)来たとみて下さい。いろんな見方が変わると思います◎(>_<) 川上地名に住んでいたから川上タケル。倭の大将に勝負を挑んで倭(ヤマト)の称号を受け取った。勝負を挑んだだけだから、その辺りを征服、支配はしないで帰った。何故なら九州王朝や邪馬台国は天津族のエリアだから。……など、私の妄想です…すみません… タケル、タケの称号は、五十猛の猛だと思います。猛→武 内宿禰