2019年 11月 27日
宮地嶽神社の神々
宮地嶽神社には仲哀天皇と神功皇后を守って戦死した兄弟神が古い祭神として祀られています。
それが高麿神、助麿神です。
筑紫の弓の強者として、下関の豊浦宮で将軍として天皇と皇后を守っていました。
ところが、仲哀七年、七夕の日に新羅軍が下関に上陸して皇居を襲撃しました。
この時、高麿と助麿は天皇皇后を守って新羅の塵倫(じんりん)と戦いますが、二人とも討死してしまいます。
迫る新羅の塵輪と仲哀天皇の直接対決となりました。
天皇の矢が敵に当たり、塵輪は倒れました。
この新羅軍の将の首が忌宮神社の正面に「鬼石」として埋められています。
ですから、仲哀天皇と神功皇后は香椎宮に遷宮した時、まずは宮地嶽神社に行き、二人の将を慰霊したと思うのです。

その二人の将の姓は阿部。
阿部とは、阿曇の部という意味だそうです。
そうして一年後、天皇が崩御すると、神功皇后は新羅戦の前にも当社を訪れ、宮地岳に自ら登って戦勝祈願をしました。
少しずつお腹も膨らんできているのに、軍隊を指揮して戦いに臨まねばならぬ宿命を神功皇后はひとり悩み、受け入れたことでしょう。
その神功皇后も当社の祭神として祀られています。

さて、こちらの阿部氏は350年のちに阿倍磐井を出した一族でもあります。
磐井の子には葛子がいて、葛子には谷殿という妻がいました。
宮地嶽の姫君です。
二人の間には勝村、勝頼という双子が生まれました。
この二人が今、勝村神、勝頼神として祀られています。
葛子の時代には、百済が新羅に攻め込まれていて、百済からは再三、筑紫の軍隊を送ってくれと頼んできます。
葛子はわが子を百済救援軍の将として送り出しました。
それが鞍橋君で、百済王子と共に新羅と戦い、百済王子を助けました。
だから、磐井は百済寄りであって、新羅寄りではありません。
この巨大な宮地嶽古墳に埋葬されたのは、この一族です。
当社では勝村、勝頼と伝えています。時代も合致していますね。
決して宗形徳前ではありません。
ちまたの徳前説に騙されないでください。
徳善は自分の娘が天武天皇の長男を生んだので、奈良に行きました。
宗像族が安曇族の聖地に埋葬されることはありません。
宗像族の墓所は宗像の神湊(こうのみなと)の近くに伝えています。
<20191127>








