2020年 03月 09日
日本武尊8 白鳥神社 景行、日本武尊の陣営地 最澄が祀る 田川市伊田
田川市にある二つの白鳥神社の内、北の方の伊田(いた)にある白鳥神社は展望が良さそうな丘の上にあった。

階段が意外に厳しい。

祭神 景行天皇 大碓命(おおうす) 小碓命(おうす・日本武尊)
小碓命とは日本武尊の事だ。
大碓命は日本武尊の兄なので、ここには景行天皇と二人の皇子が親子で祀られていることになる。
大碓命は日本武尊によって殺されている。(古事記)
古事記では日本武尊のその荒々しい性格を恐れて景行天皇は熊襲討伐に差し向けたとする。
熊襲討伐の目的は熊襲が朝貢を拒否したからだった。
さて、この丘に日本武尊が祀られることになったのは、最澄の夢に日本武尊が現れて祭祀を頼んだからだった。
『白鳥神社由来記』を読もう。(一部変更)
<延暦年中、伝教大師(最澄)が入唐し学行を終え帰朝の途中、海中の航路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢のなかに白鳥が現れ
「自分は日本武尊である、汝の航路を守り、身を守護するから昔麻剥を討つために行った豊前国の高羽川の川辺に自分を斎き祀れ」
と告げた。大師は帰朝後高羽川の川辺を尋ねた所、白鳥が飛来し伊田の里の真中の山に止まった。
もともとこの地は景行天皇、日本武尊が熊襲御征伐の際に陣をしかれた霊地であったので、大師は自身が援護の本尊として崇敬していた閻普陀金(えんぶだこん)鋳造一寸二分五厘の神像を安置して弘仁五年、社を建立し、日本武尊の霊を鎮め奉り、天台十八院の惣鎮守、垂迹白鳥大明神として崇め祀った。(略)>
最澄が遣唐使の一員として修業を終えて日本に帰って来る時に夢に日本武尊が現れた。
麻剥討伐の場所に祀ってほしいと言う。
最澄が田川に来ると白鳥が現れてこの丘に止まったので、ここで祀る事にした。奇しくもここは景行天皇と日本武尊の親子二代の陣営地だった。最澄は4センチほどの高さの黄金の神像を守護としていたが、それをここに安置したという。
閻普陀金(えんぶだこん)のエンブダは黄金が採れるインドの地名で、質の良い黄金という意味で使われるようになった。

さて、この丘は麻剥(あさはぎ)討伐の為の陣営地だ。
麻剥の名は日本書紀に見える。
景行12年、熊襲が朝貢しなかったので、景行天皇は筑紫に向かった。
周防の佐波まで来た時に、神夏磯姫が船に三種の神器を掲げて正装して迎えに行った。
神夏磯姫は「兵は出さないでほしい」と言うと、四つのまつろわぬ部族が居ることを教えた。
その三つ目が麻剥で高羽の川上にいて人を集めているという。
四つ目は土折猪折が緑野の川上の厳しい所に隠れ住んで人をさらっている、と言った。
土折猪折は前回書いた。
今日はこの陣営が対麻剥なら、麻剥は何処にいるのか、ということが課題になる。
神夏磯姫の居場所は田川の夏吉だ。
この姫の子孫の夏羽と田油津姫が神功皇后に殺された話は日本書紀にも載っている。
田油津姫は土蜘蛛と書いてあるので、神夏磯姫も当然ながら土蜘蛛ということになる。
もともと周防の人だ。
土蜘蛛とは手足の長い渡来人で冶金の技術に優れていた。
神夏磯姫は景行天皇に逆らわなかったために命は保証されたが、この田川に移住させられたのではないか、と想像している。
夏羽と田油津姫のどちらかは多分、景行天皇の子だろう。
田油津姫は朝廷を恨み、神功皇后を暗殺しようとして失敗したことが若八幡神社の縁起に書かれている。
話を戻そう。
景行天皇はまず武諸木(たけもろき)らを送り込んだ。
武諸木はまず麻剥を抱きこんだ。赤い衣やズボンや珍品を与えて歓待した。そしてまつろわぬ他の三部族の長を招き捕えて殺した。
そのあと景行天皇は福岡にやって来て京都郡(みやこぐん)に行宮を立てた。
この後、麻剥らは再び盛り返したのだろう。
麻剥の居場所が神社の縁起に記されていないか、福岡県神社誌から探してみると、思いがけず近い所に出て来た。
岩屋神社だ。
『福岡県神社誌』から一部抜粋して訳そう。
<古老伝えて曰く、
「昔、景行天皇が当国の賊徒を征伐された時、麻剥の残党がこの窟に集まってたむろし、皇命に従わず、ますます人民を略奪したので、帝が自ら討伐された。よってまず大己貴神、少彦名神、素戔嗚尊を祭祀され、凱旋の時に岩洞の側に社を建て崇祭した。>
この後も麻剥の部族は再興したのだろうが、日本武尊の手によって終焉を迎えた。
残党が隠れ住んだ岩屋は不便なために明暦4年に現在地に遷った。元の場所は上野山の南麓谷深くだという。御朱印で有名な所だ。
こうして、以下のような版図が書けた。

最澄は日本武尊の夢を見て田川に来たのだろうが、
若八幡神社では殺された夏羽と田油津姫の亡霊騒ぎがやまず、供養に向かう。しかしどうしても収まらず、六つもの寺を建ててようやく鎮まったという。
<20200309>








