2020年 03月 10日
日本武尊と金剛タケル7 近津神社 日本武尊の弓矢と事代主
金剛タケル包囲網のライン上に近津神社があった。
直方市頓野にある。

赤い橋を渡った丘の上にあった。
隣は筑豊高校だ。
縁起を調べると、日本武尊の名が出て来た。

境内由緒書きによると、
<祭神 伊弉諾大神、伊弉册大神、軻遇槌大神
景行天皇平定より八年後(西暦七十九年)熊襲征伐のため入国した日本武尊は土豪大兄彦が献じた御神器の弓矢をこの地に鎮祭した。
玉体を近くに守り給うとの意をもって近津大神と称し、又戦に千度勝つようにとの願いをこめて千勝社とも呼ぶ。
主祭神の伊弉諾命、伊弉册命は健康長寿の神として、又軻遇槌大神は火の神として昔より多くの人たちの信仰を集めている。>
とある。
景行天皇が熊襲平定をしたあと、日本武尊が追討に来たのだが、ここ直方市頓野(とんの)には土豪に大兄彦がいて、日本武尊を支援した。この時の弓矢を神器として祀ったとする。
「近津」は日本武尊の玉体の近くに守られるから、ということだが、ここには省略された文がある。
『福岡県神社誌上』から現代語訳しよう。
<当社の創始は遡って千八百年前、即ち人皇十二代景行天皇の御代に、日本武尊が熊襲征討として入国された時、福智山に登られ、「平国の御弓矢」で玉体(日本武尊)の守護霊である事代主命を祀られ、土豪大兄彦という人が武尊の命令を受けて神器の御弓矢を奉じて、此地に鎮祭したことより、玉体を近く守り給う、という意味で近津宮と称した。千たび勝つの意味で千勝社と呼ぶという。
身命の長寿、武運の強盛を守り給うほかに、温和円満の御神容を以て福縁を守られることから、世に恵比須神と尊び奉る。則ち本社東殿の御神位にいらっしゃる。>
日本武尊は東にある福智山に登り、自身の守護霊の事代主命に「平国の御弓矢」を捧げて祀った。この時案内したのが大兄彦だろうが、その弓矢を当地に持ち帰って祀ったということだろう。
事代主命は恵比寿様のことだ。
掲示板の祭神にはその名が記されていないが、祀られているということになる。
伊弉諾大神、伊弉册大神については、続きによると、
近津神社の西の小野牟田という所に「高津の森」があったが、そこはイザナギ、イザナミ夫婦神が英彦山(ひこさん)に留まる前に降臨した地で、十三代成務天皇の御代に、神々が顕現したことによって、筑紫国造の田道麿が高津小野の宮を造立した。
当時は玄界灘の波が打ち寄せる聖地だったが、
奈良時代には葦が生える沼地になって聖域にふさわしくなくなったので、四十五代聖武天皇の御代、天平九年春に大宰太貳藤原宇合卿が高津小野の宮を近津神社に合祀した、という。
よって、一番古い祭神は軻遇槌(かぐつち)大神、すなわち火の神だったということになろう。
土豪の大兄彦は火の神を祀る一族で、日本武尊を迎えて福智山に案内し、武尊の守護神である事代主神を祀ったという流れにだろう。
この丘陵には高校の施設があり、いかにも弥生の丘の風情だ。大兄彦はこの丘に住む部族の長だっただのだろうか。

社前からは福智山が尖って見えた。
日本武尊が福智山に登った話は同じ直方市の鳥野神社にもある。

これで、近津神社も日本武尊方となり、地図に載せてみると、金剛タケルの包囲網はだんだん狭くなってきた。
ところで、イザナギ、イザナミ尊を当社に合祀したのは大宰大貮の藤原宇合だ。
この人は不比等の子で、藤原四兄弟の三男坊になる。これまでは四男坊の房前(ふささき)が小城市にいたことを記していたが、宇合(うまかい)の名が出てくるとは思わなかった。
大宰府に向かう街道を馬で通って、立ち寄ったのだろうか。
あるいは船で遡ったのか。
筑豊では結構、飛鳥、奈良時代の有名人が記録されているのである。
メモとして、多治比県守の名が直方の多賀神社に出てくる。この人も大宰大貮。大伴旅人と一緒に大宰府にいた。








