2020年 04月 15日
もう一度 アリシア
人に会わない、十割会わない暮らしを、もう一か月半もしている。
世界中が籠らねばならない、ということはどういう意味なのか。
新しいもの、新奇な物を求める暮らしを強制的に捨てさせられた。
何が残るのか。
おのれが歩んだ道なら残っている。
私たちはどんな道を進もうとしたのか。
留まる事のない、経済と軍備と消費。
ホピ・インディアンはそのままロケットを飛ばす道を進めば「情けないことになる」と予言した。
近未来を、何を手掛かりに考えたらいいのか。
ふと数日前から、何故、アリシアはエジプトから船で逃げるシーンを見ろといったのか?気になった。
「ウーナⅡ」の冒頭を何度か読み返している。
二度目、三度目で気づくことも多い。
ブログの読者も既に読んだ物だが、アリシアの言葉のみを抜粋してみた。
「アリシアだ。
記憶の過去に眠る事・・・、知らぬことは知らぬ方がよい。覚えておらぬことは、覚えておらぬ方がよい。目覚めようとする魂がそなたらに会うことで目覚めようとする」
「それぞれ、一度しくじった者たちがまた集まり、それぞれ胸に埋めた魂の記憶を持って最後の望みをかける」
「心のままに動けばよい。記憶が発動するときに動けばよい」
「知るだけか。知れば行動せねばならないぞ」
「遠い昔から、天動、地動、それぞれ同じ動きをする。天から地から同じ動きをする。星、風、人の動き。天の神の通る道と人の通る道」
「人を導き、この世、この地を変える。神も人も同じ。
いにしえの人々は神と同じ道を通ることで、神に近づけると考えた。
それは神の目を持つことを意味する。
例えば、星を見て神の意向が分かるということだ。
それぞれ12人の者たちの力が再び、この世に、この地に集まる。
モーゼから始まった。
子供、弟子に同じ話を、石板に書かれたものを伝えていたが、今は伝わらない。
モーゼの石板を運んだのはヤコブ。
ヤコブは大きく恐ろしい顔をしていた。
人に恵まれず、人を助ける方にまわった。
そういう中で、モーゼの教え、石板に、どんなに苦しくとも従った。
絶望に苦しめられる人も、共に生きる術をだんだん受け入れる人が増え、集落を作り、子供たちが成人し、今でいう、13、14歳からそれぞれの地へ行った。
この地球を救うために。
なぜそう思ったか。
この地球・破壊の神シーバの脅威があるからだ、
その脅威から逃れ、この地に来たのがガードゥ。
それぞれ力や知恵のある者、神の目、耳を持つ者たちが船でこの地に来た」
「それが鞍手ですか」
「そうだ。そこで今とは形の違う地形に降り立った。この地は高い山・シナイの地。
天に聳え立つ地を拠点とし、その地からそれぞれ別れ、部族を開いた。
それがこの地の始まり。
人が住めるようなところではなかった」
「あなたが伝えたいことは?」
「伝えることか。この宇宙全体が幾度となく危険に阻まれ、それでもこの形を留めている。
シーバは人の心に入りこみ、脳を麻痺させ、操る。しかし、脳は操れても、心は操れぬ。
心にしっかりと向き合い、自分は何故ここにいるのか、何が出来、何が出来ないか、知恵や仲間に頼ればよい。君が代は石板の右下に、モーゼの思いにして綴られている。
一人ひとりは強くはない。しかし、それぞれの役割の者が集まり、砕けてもまた集まり一つになる、その心があれば、どんなに砕かれようが、シーバに手を貸すアデルにとって、脅威となって働き始める。
頭脳は電気信号で操られようが、心は各々大事にしてきたものがある。電気信号ではどうにもならない。
今一度、そなたたち、この時、この場、この時代、この人たちと巡り合ったのは何故かと考えよ。さすれば、おのずと知れてくる。
皆の心ひとつで出来ることがあるはず」
以上、一部の抜粋だ。この前後は「ウーナⅡ」に記録している。
ガードゥらの試みは、病や魔が入り込んで、次々に仲間が倒れてしまい、失敗に終わった。
それを「しくじった」というのは正当な評価ではないと思う。
当時は不可抗力だった。
しかし、今、会えないという時代が突如出現した。
いつかは抜ける災難だが、私たち人類は新しい輝く時代を作れるだろうか。
それは、一人一人の内観に掛かっているのかもしれない。
<20200415>
「ウーナⅡ」を始めから読む
https://lunabura.exblog.jp/i260/

by lunabura
| 2020-04-15 20:27
| 「ウーナⅡ」
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