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ひもろぎ逍遥

磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 19 百済への援助 船、武器、軍隊、築城


19 百済への援助 船、武器、軍隊、築城





前回、西暦500年代の百済と日本の関わりをざくっと見ていった。

この時代は、百済と新羅に挟まれていた任那諸国が次第に侵略されていき、ついには滅亡していく時代だ。そして朝鮮半島は高麗、百済、新羅の三国時代に入っていった。

三国の王族は同祖ということで、三国は同盟したり対立したりする。
百済は単独で高麗や新羅と戦うかと思えば、ある時には新羅と組んで高麗と戦っている。
そして倭国と組んで新羅と戦った。

任那日本府の中にも百済寄りが居たり、新羅寄りが居たりして一枚岩ではなかった。

百済が軍事的に疲弊していたことは明らかだが、日本書紀には百済に下賜した物が記されており、その困窮ぶりが伺える。

今日は西暦500年から60年間に、どんなものを百済に与えて援助したかを見ていこう。

県と国と港
任那の四県、コモン国、タサ国、タサ津(港)


西暦512年に筑紫の馬40頭。546年に良馬70頭。553年に馬2頭。556年には沢山の良馬。

百済は弓馬の不足を訴えていて、何度も贈与を求めた。

筑紫の馬は何処で飼われていたのだろうか。
当時の筑紫馬の産地で大きいのは福津市の渡半島で、さらに玄界灘沿いにもずらりと牧場があった。
それらは江戸時代まで機能していた。他の牧場はまだ見つかっていない。
百済に下賜した多くの馬は渡半島の馬だったのかもしれない。

武器
西暦550年 弓三十具(一具は50本) 553年 武器。 556年 多くの武器。
百済は武器も不足していた。当時の矢の現物を船原古墳の発掘現場で見たが、それは丁寧な細工が施されていた。羽根は無かったが、羽根については久留米市の耳納(みのう)山脈の麓で鷹が飼われていて、その羽根が矢の材料になっていた。

百済に下賜した弓「三十具」はわずか1500本と言っても、どれほどの鳥の羽根が必要だったかと考えると、一本がかなり高価なものだったことが分かる。


西暦546年 10艘。 553年2艘。
船を10艘ともなると、これは大層な数だ。和船が重要な働きをしていた。
船大工の道具は福津市や北九州市で出ている。ノコギリやカンナだ。

九州国博で見た白村江戦のパネルには、日本の船が手漕ぎボートで描かれていて仰天した。NHKの歴史番組でもそうだ。しかし、これよりも百年も前に倭国から船が百済に下賜されていた。これは手漕ぎボートではなく構造船だ。そろそろ考えを変えてほしいと思う。

それでは、一艘当たり、どのくらいの人数が乗ったのだろうか。
西暦554年に筑紫内臣が軍勢1000人を引き連れて百済の援助に向かっている。
この時、連れて行った馬が百頭で、船は40艘だった。
兵士1000人÷40艘=25人。
馬100頭÷40艘=2.5頭。

一艘当たり、25人と馬2~3頭になる。これに馬や人の食糧や武器が載っていた。

西暦546年、馬70頭を百済に下賜したケースも、仮に10艘で渡海したと考えてみよう。一艘当たり馬7頭と馬子、兵士、海士、食糧、水と考えるとギリギリだ。

筑紫から半島までの航行の時間は、554年の例を見ると、5月3日に出港して6月に到着している。片道約一か月はかかった。

一か月分の馬の餌の量を考えると、かなりの積載量になる。もちろん、半島に上陸して馬の餌がすぐに確保できるわけではないので二か月分は準備したことだろう。

兵士
西暦400年代だが、倭国で王に任命した末多王を送る時、筑紫軍士が500名で護送している。

西暦548年、百済聖明王は百済に居た日本の駐留軍を召還しないように頼んだ。この時の駐留軍の人数は不明だが、西暦515年に物部チチ連が500人で半島に向かっている。これは伴跛国(はへこく)討伐だったが、敵に襲われて身ぐるみはがされた。この時の兵が残っていたのかもしれない。

527年に毛野臣が六万もの軍勢を率いて新羅討伐に向かったのはどうなったのだろう。前後から推測すると、一部隊は500人程ではないか。6万人は明らかに虚構だ。


西暦554年、前述したように筑紫の内臣軍勢千人が馬百匹、船四十艘で遠征した。この前年に聖明王は前軍、後軍を送ってほしいと依頼していた。しかし内臣が到着した翌年、聖明王は戦死し、鞍橋君が百済王子余昌を救った。

さらに翌年、聖明王の戦死を知らせるために百済王子の恵が日本に来た。西暦556年、王子恵が帰国するときに多くの武器や良馬を下賜し、阿倍臣、佐伯臣、播磨臣らが筑紫の舟師(数は不明)を率いて護送した。さらに筑紫火君が勇士1000人を率いて要害を守った。

多くの筑紫の軍勢が海を渡って百済を援助した。筑紫と書いているが、倭国のことと思われる。

ちなみに千人を引き連れた筑紫火君とは筑紫君の子だ。当時の筑紫君は葛子だろう。
また、筑紫内臣は名が記されていないが、阿倍鳥だろうと言われている。
(日本書紀は例の如く、阿倍氏の名を伏せて磐井一族の関係が分からないようにしている)

麦の種
西暦551年に百済聖明王に麦の種を一千石下賜している。日本でも麦を生産していた。麦の種を送るほどなので、百済は飢饉だったのだろう。


築城
西暦548年、百済聖明王が高句麗に敗れたため、日本から370人が派遣されて得爾辛城(とくにし)を築いた。

これは、百済に日本式の城があることを意味する。

佐賀の基肄城(きい)や福岡の大野城は日本書紀に百済人が造ったように書かれているので、それが通説となっている。しかし朝鮮式の山城の画像を見る限り、全く異なっていて、疑問を持っていた。

昨年だったか、実際に韓国の考古学者を招いて現地を見てもらったら、朝鮮式の山城ではないと、断言したということだ。

何もかも朝鮮半島から来たのではなく、基肄城も大野城も日本人によって造られた城だと思う。
得爾辛城の存在は、日本から人材が派遣されて半島に倭式の城があったということを示している。

聖明王は仏像を献上したことで知られているが、筑紫から軍事援助を多く受けていたことも知っておくべきだと思った。

<20200621>






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by lunabura | 2020-06-21 16:40 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

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