2020年 07月 02日
『神秘書』 高良の神秘「山上の一火」と「麓の一火」 三種の神器の行方
『高良玉垂宮神秘書』(以下『神秘書』)には「秘すべし、秘すべし」と書いてあるものだから、ついつい何が秘密なのか探ろうとして読み進めるのだが、何が書いてあるかさっぱり分からない。何が秘密なのかを知るには何か月も格闘せねばならない。
こうして、私もワナにハマったのだが、『神秘書』が秘密にしたいことの一つが「高良の神秘」だ。
それは「三種の神器」が高良山に持ち込まれて「山上の一火」と「麓の一火」になったことである。
『神秘書』には、仲哀天皇の崩御後、三種の神器は八尺瓊勾玉を安曇磯良が、八咫鏡を武内宿禰が、宝剣を神功皇后がそれぞれ分けて預かったと記されている。
神功皇后が崩御すると、安曇磯良は八尺瓊勾玉と干珠満珠の二つの珠、合わせて三つの珠を高良山に持ち込んだ。それが霊力を発揮して「山上の一火」と呼ばれるようになった。
また武内宿禰は八咫鏡を高良山の麓に持ち込だが、それは「麓の一火」になった。この八咫鏡は武内宿禰の子の日往子(ひゆきこ)に伝世され、朝廷に返還されることはなかった。
山上の一火
高良山上に「住厭(すみあき)」という地名がある。ここは安曇磯良が最初に住んだ所だが、ほどなく住み飽きて移って行ったことから付いた地名だ。
高良山の麓の方には旗崎(はたざき)、神代(くましろ)という地名がある。安曇磯良は神功皇后崩御後、筑後に戻って来て、有明海沿岸の黒崎に行き、これから統治する場所を占って旗を投げた。
その旗が降りた所が住厭で、その「旗の先」が指した所を旗崎と言うようになったという。
神代は干珠満珠を納めて祀った所で、現在の久留米市神代の安国寺境内に干珠満珠社がある。安曇磯良は神代から高良の形態を定めて行った。
干珠満珠は安曇磯良が海神から預かって三韓討伐の時に神威を発揮して勝利を得たものだ。
干珠は白玉で、満珠は青玉、長さは十五センチほどで頭は太く尾は細いというので、勾玉の形状になる。この干珠満珠を持ち込んだことから高良を玉垂宮と言うようになった。(509、542条)
また磯良が預かっていた八尺瓊勾玉もそのまま高良山に持ち込んだ。
こうして三つの勾玉が高良山に至ると、三つの霊力が合わさって「山上の一火」となったという。
「山上の一火」は毎日、上宮御殿を出て八ヶ寺を巡り、鷲尾(わしのお)を下り、瓦礫場(つぶてば)のそばに下り、八葉の石畳(いわゆる神籠石)を巡り、もとのように上宮御殿に留まった。
もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来るだろう、と記している。
麓の一火
一方、八咫鏡は武内宿禰が高良山に持ち込んだ。
麓の大祝の屋敷にそれを置くと神威が現れて「麓の一火」となり、屋敷を出て祇園山古墳の丘に出て、馬場の堀、下宮、本躰所を巡り、阿志岐、不開、朝妻、矢取、瓦礫場に上がって古墳の丘に戻った。
この古墳は大祝職日往子命の廟である。日往子は武内宿禰の子で、大祝職はこれゆえ「鏡山」の姓となった。
「山上の一火」は金剛界、「麓の一火」は胎蔵界を表している。これらを「秘すべし、秘すべし、神秘なり。」と記している。(215条)
ということで、三種の神器の内、勾玉と鏡は安曇氏と物部氏がそれぞれ伝世してしまったようだが、
その後、どうなったのだろうか。
白鳳二年、玉垂命が仏道に発心して大菩薩になったあと、この件を内裏に伝え、どうなったのかが239条に書かれている。カタカナで書かれたものに漢字を当ててみた。
<一、奉還(ほうくはん)を内裏(だいり)へ申さずつかるること、世に優れたることなり。
大菩薩御発心ありてより内裏へ申し、末代までも仕えしようをこししつちゃうしと定め、はたくしにつくこと、天下の掟(おきて)、是に如(し)くことまれなり。>(239条)
どうやら申告したあとも、「護持し続けた」ようだが、上手く訳せない。
どなたか、チャレンジしてほしい。!(^^)!
なお、祇園山古墳の丘は高速道路建設のために危うく消え去りそうになったが、破壊を免れて残っている。どれほど重要な所だったのかが身に染みる。この丘はまだまだ物語がある舞台なのだ。
また、おいおい整理していこうと思う。
<20200702>