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ひもろぎ逍遥

1 近津神社 藤原宇合が黄金の神体を奉納していた




万葉集を見ていると、藤原宇合(うまかい)が筑紫に西海道節度使として派遣される時の贈答歌が出てきました。

宇合は藤原四兄弟の一人で、三男です。
父は不比等。兄に房前(ふささき)がいます。

房前については小城市の天山神社の祭神として紹介したことがありますね。十代で対馬を守るために戦った人です。

その房前の弟・宇合の名前が直方市(のおがたし)の近津神社に出てきます。
宇合はここに黄金の神体を奉納しました。

ここは日本武尊がやって来た所として既に紹介した神社です。

今日は万葉集に歌われた宇合と、近津神社の関係を見ていきましょう。


まずは宇合に贈られた長歌と反歌から。長歌は現代語訳(るな訳)だけ記します。

万葉集 971
天平四年壬申(732)、藤原宇合卿が西海道節度使に遣わされる時に、高橋連蟲麻呂の作る歌一首。


龍田山が露霜に赤く色づく時に その山を越えて旅行く君は いくつもの山々を踏み越えて行き
外敵から守る筑紫に至り 山のきわ 野の果てを監視せよと 兵士たちを分けて派遣し

山彦が応える果て カエルが渡る果てまで 国の形を隅々まで見て 
春になったら飛ぶ鳥のように 早く帰って来てください

龍田路の丘辺の路に 赤いツツジが咲き誇り 桜が咲く時に お迎えに参りましょう 
あなたが帰って来られるなら】

反歌一首

972番
千万の 軍なりとも 言挙げせず 取りて来ぬべき 男とぞ思ふ
(ちよろづの いくさなりとも ことあげせず とりてきぬべき をのことぞおもふ)

【千万人の敵軍であろうとも あれこれと言わずに平らげる男だと思っています (あなたのことを)】

天平四年(732)に宇合が西海道節度使として筑紫に派遣される時に、高橋蟲麻呂(むしまろ)が贈った送別の歌です。

宇合の返歌は記されていませんが、漢詩を詠んでいて、あまり行きたくない想いを残しているそうです。


西海道節度使とは、唐制にならって始まったもので、初年度が天平四年ですから、制度が始まった年早々に、宇合は初代として筑紫に派遣されたことになります。

宇合はそれまでも遣唐使として唐に渡ったり、常陸守として赴任したり、神亀元年(724)の蝦夷反乱の時には持節大将軍として遠征したりと、ゆっくりと家で席を温める暇もない日々を送っています。

神亀6年(729)の長屋王の変の時には近衛兵を率いて長屋王邸を包囲しました。

そして節度使としての筑紫行きがその三年後です。

この時、宇合は38歳。

元服が16歳だったと仮定して、唐、関東、東北、九州へと戦いも含めて派遣されているのですから、二十余年、気が休まらぬ日々を送っていたと思われます。きっと若い内から周囲の期待が大きい人物だったのでしょう。


節度使となって筑紫に来ると、宇合は軍事マニュアルとして「式」を整備しています。
遣唐使として唐の都で見た軍事組織を日本でも応用したのでしょう。

(中国テレビドラマの『独弧加羅』から『武則天』にかけて、唐の軍事組織を垣間見ました。凄い組織ですね。ただしドラマは考古学的には引き算して見ています。)
この本物を宇合は見たわけです。

大宰府では御笠軍団や遠賀軍団の印鑑が出土しているので、そのような組織創りに関わった人物でもあります。

遠賀軍団は何処にあったのでしょうか。
嘉麻市に郡役所があって、山上憶良が仕事をしていたので、その付近の可能性もありますね。










1 近津神社 藤原宇合が黄金の神体を奉納していた_c0222861_12443916.jpg

さて、そんな藤原宇合の名前が出て来たのが近津神社です。

当社は日本武尊が福智山から下山して守護神の事代主命を祀ったことから始まりました。

現在の祭神は伊弉諾大神(いざなぎ)、伊弉册大神(いざなみ)、軻遇槌大神
と境内の由緒碑に書かれています。


「福岡県神社誌」によると、この伊弉諾大神と伊弉册大神はもともと小野牟田の西にあった丘、「高津の森」に祀られていました。
この祭神を藤原宇合が近津神社に合祀したと記されています。

その部分を訳してみます。

【直方市頓野小野牟田の西にある高津の森の地は帝国開拓の太祖、日本民族の根元たるイザナギのミコト、イザナミのミコトが豊前の英彦山に留まられる前、最初に降臨されたゆかりの地だった。

十三代成務天皇の代にこの二神が顕現されたので、筑紫国造の田道麿が初めて高津小野の宮をそこに造立した。その時、神伝の玉と鏡に田道麿護身の鉾(ほこ)を添えてご神体として奉安した。

その後、四十代天武天皇の御代に大宰総領の三野太郎王が国人に命じて御社殿を再興されたので、三野宮とも称するようになった。

ところが、頓野西方の低地部は上古、玄海の潮の勢いに侵されていたのが、長年の内に次第に退いて、境内は沼地の葦原に取り残されて神域としてふさわしくなくなった。

今から1200年前、四十五代聖武天皇の御代、天平九年春に大宰大貮の藤原宇合卿が神威を感じ、高津小野宮を近津宮に合併した。

この時、黄金の御神体を鋳造して、この山に納め、社殿を改造して、治国安民祈願所の宣旨(せんじ)を下され、天子奉納の御楯、及び大宰府より陵王面、大鈴など御寄進あったと云々(うんぬん)。】

とあります。

もともとイザナギ、イザナミは直方の小野牟田の高津森に降臨してから英彦山に遷っており、成務天皇の時に二神が顕現したので原初の地に祀るようになったといいます。

成務天皇は日本武尊の弟です。皇太子だった日本武尊が早死にしたので弟が天皇になった訳です。

直方市は遠賀川沿いにありますが、昔は玄海の荒波が押し寄せていて、奈良時代には沼地が広がって葦が茂るようになりました。今、小野牟田池がありますが、それが名残なのでしょう。

藤原宇合は天平四年に大宰府に赴任してから天平九年までに直方市までやって来て、高津小野宮に参拝して神威を感じて黄金の御神体を造らせました。

沼地だったので参拝が困難だったのでしょう、丘の上にある近津神社に遷して黄金の御神体を奉納しました。

近津神社が日本武尊ゆかりの宮という点にも意義を感じたのでしょう。

この時、宇合は44歳でした。そして、この年に天然痘でこの世を去ります。


最近、思うのです。

藤原四兄弟といえば全員高位になって政治を専横したと、よく書かれていますが、その評価は実態に即しているのでしょうか。

次男の房前(ふささき)も三男の宇合(うまかい)も十代から将軍の地位を与えられて戦ったり、あるいは遣唐使になったりして、大きな責任を背負って結果を残しているんですね。

藤原房前がいなかったら対馬は今頃、外国領となっていたかもしれないし。
藤原宇合の近津神社での祈りは「治国安民」でした。

少なくとも、この二人は妻や子供を残して各地に飛び回らねばならない人生を送った人達として、新しい評価を下すべきではないかなと、最近は思うのです。


<20200717>


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1 近津神社 藤原宇合が黄金の神体を奉納していた_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-07-17 12:45 | 万葉と広嗣の乱 | Comments(0)

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