2020年 07月 18日
2 多賀神社6 多治比県守が再建させたイザナギ・イザナミの宮
多賀神社も前回の近津神社同様、直方市(のおがたし)にあります。
直方市は遠賀川の両岸に広がっていて、右岸に近津神社、左岸に多賀神社が鎮座しています。
いずれもイザナギ、イザナギを祀る宮です。
前回の近津神社のイザナギ・イザナミ祭祀については、夫婦神が英彦山に行く前に降臨した「高津の森」から現在地へ藤原宇合が遷した話を書きました。

そして、今回の多賀神社は夫婦神が国土と神々を生み、イザナミが火の神を生んで死んだあとの話になります。イザナギは独りになって天に帰る途中、ここで光となって出現して、「この山で我を祀って長寿と幸福を祈るがよい」と言ったとい伝えます。
もともと神社は妙見山にあったのですが、元禄五年に黒田長清が城を築くために現在地に遷したと『福岡県神社誌』にあります。
創立の年は不明ですが、「元正天皇養老三年、多治比真人縣守(たじひのまひとあがたもり)の宿願によって鞍手郡司の何某(なにがし)に命じて再建させた」とあります。
多治比真人縣守って、大伴旅人の時に出てきましたね。「たじひ」は万葉集では「丹治」と記されています。「真人」は八色の姓(やくさのかばね)の最上位の身分のことです。
長屋王の変後、参議に欠員が出たので、臨時的に多治比県守が赴任するために帰京する時の歌です。大伴旅人と県守は飲む約束をしていたのに反故になった時の歌です。
「夜須野の独り酒 長屋王の変は朗報だったかもしれない」というタイトルで紹介しました。
その歌だけ記しておきます。
大宰帥大伴卿、大貮丹比(たぢひの)縣守(あがたもりの)卿(まへつきみ)の民部卿に選任するに贈る歌一首
555番
君がため 醸みし待酒 安の野に 独りや飲まむ 友無しにして
(きみがため かみしまちざけ やすののに ひとりやのまむ ともなしにして)
【君のために作った待酒を 夜須の野で独りで飲むのか 友もいなくて】
この時、多治比県守は大宰府の大宰大貮の身分で、神亀6年(729)のことでした。
この多治比県守がその十年前、養老三年(719)に「宿願」によって、直方市の多賀神社を再建させていたというのです。その「宿願」とは何だったのでしょうか。
年表を見ると、多治比県守はその三年前に遣唐押使(けんとうおうし)に任命されていました。
「押使」の身分は遣唐大使より上位です。多治比県守が王家の血筋だったので、大使より上に置かれた訳です。ですから最高責任者となりました。
任命されて一年近くの準備を経て、ついに大海を渡って無事に唐に着き、養老二年(718)に帰国していました。大成功だったのです。
その翌年の養老三年に多賀神社を再建した訳ですから、「宿願」とは遣唐使の成功だったのではないでしょうか。「遣唐使が成功して無事帰国した暁には再建をします」というような祈りだったと考えられます。
興味深いことに、この時の遣唐使のメンバーに、前回、近津神社に黄金の御神体を奉納した藤原宇合(うまかい)がいたのです。
つまり、宇合もこの多賀神社の神威を船の上で多治比県守から聞いていて、いつかお礼参りをしたいと考えていて、大宰大貮に赴任した時、当社に参拝したのではないかと思われるのです。
そして、夫婦神が降臨したという高津の森の話を聞きつけて参拝した所、葦をかきわけての道中だったので、丘の上にある近津神社に遷宮させたのではないでしょうか。
それは天平九年(737)のことでした。この年、宇合は天然痘で死んだのですが、同じ年の6月に多治比県守もまた亡くなりました。享年70歳だったといいます。
多治比県守、藤原宇合という、国の政治を動かした二人の人物が直方市にあるイザナギ・イザナミ信仰圏に出掛けて参拝し、それぞれに寄進していました。
また、多賀神社はのちに行基が東蓮寺を建立した時、胎蔵界金剛界の両部としています。
時々行基の名を筑紫や肥前で見かけましたが、これまでは日本武尊や神功皇后に討伐されて怨霊になった人々の供養をしていましたが、今回は直方に曼陀羅界を打ち立てています。
彼はいったいどんなミッションを持っていたのでしょうか。この僧の名を見るたびに、気になってきます。
さて、多治比県守や藤原宇合が亡くなって三年後、遠賀川流域では大きな事件が起きます。
それが藤原広嗣の乱です。広嗣は遠賀郡に本営を置いたといいます。この広嗣は宇合の長男です。
次回は広嗣が建立した神社を見ていこうと思います。
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