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ひもろぎ逍遥

3 大中臣神社 藤原広嗣は何故この宮を創建したのか



藤原宇合は直方市の近津神社に黄金の御神体を奉納した年、天然痘で亡くなった。44歳だった。

その長男の広嗣は生まれた年が分かっていないが、父が18歳の頃に生まれたと仮定すると、26歳ぐらいの時に父を失ったことになる。

この年に宇合を含めた藤原四兄弟が全員天然痘で亡くなってしまったため、政権を担う人物がいなくなり、橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭した。

広嗣はまだ若輩。これから経験を積んでいくべき立場にあったが、橘諸兄が吉備真備玄昉(げんぼう)を重用したことに対して反感を持った。

吉備真備と玄昉は広嗣の父宇合が遣唐副使として唐に渡った時のメンバーだった。

それぞれに多くの学びを日本にもたらした人物なので、重用されてしかるべき経験を持ち合わせていた。それでも広嗣はこの二人を認めることが出来なかった。

広嗣は大宰少貳(しょうに)として大宰府に赴任するが、そこから「天地による災厄の元凶は吉備真備と玄昉に起因するため、二人を追放すべき」と上奏文を送ったという。

右大臣の橘諸兄はこれを謀反と受け取った。

聖武天皇は広嗣の召還を命じた。天皇にとって広嗣は親族の一人。まずは真意を確かめたかったのだと思う。


大宰府から謀反を起こしても、政権を奪うにはあまりにも遠い。いったいどうやって奈良まで進軍するというのだ。果てしない戦いが途中に待ち受ける。謀反を起こすなら帰京してからが合理的だ。だから、その奏上文をもって謀反と捉えるのは、あきらかに橘諸兄の邪推だ。


運命は想定外の方向に舵を切る。

四日後の9月3日、「広嗣が弟の綱手と共に挙兵した」という飛駅が都にもたらされた。

聖武天皇は大野東人を大将軍に命じて1万7000人の動員を命じた。

が、私には理解できないことがある。

二十代の藤原氏の長男坊が大宰少貳という中途半端な身分で、どうして1万以上の兵を動員できたのかという点だ。上奏文の「吉備真備と玄昉を排斥せよ」では、謀反の烽火(のろし)を打ち上げることはできない。こんな理由で九州各地の軍を動かせるのか。そんな疑問が頭をよぎる。

大宰少貳とは九州の軍備を掌握できるような身分ではないのだ。
しかも大宰府に来てわずか二年で、筑紫の地勢も分からない者が、諸軍の大将軍になったというのだ。

私の中に広嗣の乱に対しての通説への疑念が強く生まれたのが、大中臣神社の社前に立った時だった。

それは小郡市にあった。
近くは物部氏の神社ばかりだ。

そんな環境の地に藤原広嗣はやってきて祖神を祀った。








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当社の祭神は天児屋根命(主祭神)、武甕槌命(脇祭神)、経津主命(ふつぬしのみこと)、三筒男命(脇祭神)。

つまり、中臣氏の神である天児屋根命を藤原広嗣が初めてここに祀ったのだ。
それは謀反を起こしたという天平12年(940)だった。

広嗣がこの地をもともと知っていたはずはない。

誰かが導いた。

その人こそ、九州の軍を掌握して、謀反を考えていた人物だ。
その人物には朝廷を覆す思いがあって戦術を練っていた。そんな時に旗印となる男がやって来た。
それが広嗣だ。
広嗣は若く、たやすく持ち上げられてしまった。

広嗣はその人物に導かれて小郡(おごおり)に来て、祖神を祀った。
そしてこれからの戦いの戦勝を祈願した。
それが私の感じたものだった。



決戦は北九州市の板櫃川で行われた。ウィキペディアから一部を参考に概要を記そう。

広嗣は大隅国、薩摩国、筑前国、豊前国の兵5000人を率いて鞍手道を進軍した。大宰府に常駐する軍だったのだろう。御笠軍団や遠賀軍団も含まれていたのかもしれない。

広嗣には綱手という弟がいた。五、六男というから、まだ十代だったかもしれない。その綱手は筑後国と肥前国の兵5000人を率いて豊後国経由で進軍した。

ということは、佐賀や久留米の兵は日田経由で東へと向かったのだろう。磐井の君が逃走したルートがふと胸をよぎる。

そしてもう一人、多胡古麻呂は田河道を進軍した。
こうして三軍が北九州市に向かっていった。

広嗣が挙兵して18日後の9月21日には官軍の将軍大野東人が山口に到着した。そしてただちに豊前の三つの鎮を奪った。

都では聖武天皇が9月29日に「広嗣は凶悪な逆賊である。云々」という勅命を出した。そして10月になると都を離れて伊勢神宮に向かって行幸した。

10月9日。板櫃川を挟んで広嗣軍と官軍が対峙した。この両軍に隼人がそれぞれ含まれていた。官軍の隼人が方言で投降を呼びかけると、広嗣軍の隼人は川を渡って投降した。そして綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを教えた。

官軍側の勅使
が広嗣に何度も呼びかけた。
すると、広嗣は軍の中から現れた。広嗣は下馬して拝礼し、「朝命に反抗していない。朝廷を乱す二人を罰することを請うているだけだ」と釈明した。

勅使が「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うと、広嗣は返事をせずに馬に乗って引き返したという。


まさに、勅使も私と同じ疑問を持ったのだ。
そして、それに答えない広嗣の沈黙の中に、この乱を主導した人物の名があったのだと思う。


九州では倭王朝の残党が復権を目指していた。そんな時に、藤原広嗣が大宰府にやって来たので、「我らの長がやって来た」と言って広嗣を祭り上げた人物がいたのだ。しかし、広嗣は板櫃川で勅使にそれを弁解しなかった。

倭王朝は阿部氏だ。そして藤氏でもある。宮地嶽神社がそうだ。
藤氏はもちろん中臣鎌足が藤原鎌足になったことで知られている。
これについては稿を改めて詳述しようと思う。


さて話を戻そう。

藤原広嗣は合戦で敗れると船に乗って五島列島に逃げ、新羅に向かうが、風が変わって押し戻される。10月23日に値嘉島で捕えられ、11月1日に処刑された
この後、唐津や小城では広嗣は神として祀られた。鏡神社という。


聖武天皇と大伴家持

この広嗣の乱をきっかけに聖武天皇が伊勢に向かい、途中で大伴家持と贈答した歌が万葉集に載っている。

1029番
天平12年10月、太宰少貳藤原広嗣が謀叛を起こして軍隊を出動させたことにより、聖武天皇が伊勢国に行幸された時に河口行宮で内舎人(うどねり)の大伴宿禰家持(やかもち)が作った歌一首。

河口の 野辺に庵りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも

(かわぐちの のべにいおりて よのふれば いもがたもとし おもほゆるかも)
【河口の 野辺で行宮を営み 何日も夜が経ったので 妻の腕が 恋しく思われることだ】

1030番
聖武天皇の御製の歌一首


妹に恋ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る

(いもにこひ あがのまつばら みわたせば しほひのかたに たづなきわたる)
【妻を恋しく思って 吾の松原を 見渡すと 潮干の潟に 鶴が鳴いて渡っていく】


二人は旅の途中でそれぞれに妻を恋しく思う歌を詠んだ。

河口行宮に滞在したのは11月2日から11月12日の間だというので、この贈答歌を交わした時には既に広嗣は処刑されていたが、その知らせはまだ届いていなかった。

かつて大伴家持の母方から流人が出た時も、聖武天皇の働きで死刑を免れたことがあった。
政権を争う大臣たちの世界に聖武天皇はうんざりしたことだろう。


何気ない妻恋の歌のようだが、大伴家持は万葉集を編纂するとき、そのことを含ませて序詞に書き入れたと思われた。



<20200721>

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by lunabura | 2020-07-21 20:03 | 万葉と広嗣の乱 | Comments(0)

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